| 6 花霞 クルーゼが検査室を出たときには、時計は既に午後9時を回っていた。 一応アデスの携帯に異常なしと検査結果を連絡しておく。 迎えを寄越すと言ったアデスの言葉に、適当に本部へ行くからいいと断って電話を切った。 血のにじんだ制服をそのまま着ているわけにもいかず、軍の貸与品である替えのシャツを借りて身に着け、その上に白い制服を羽織る。 時間外ということもあってか、病院の研究棟に人影はなく、クルーゼの足音だけが廊下に響く。 病棟の方へと続く廊下を歩いていると、ちょうど病棟の裏側にあたるのだろうか、木々が茂り、花々が植えられた広い庭園があった。 人気のないその庭に出てみようと思ったのは、見慣れない樹を見たからだ。 2階建ての建物の高さ程もある樹影は、薄闇に白く霞むように浮かび上がっていた。 光の正体は、花だ。 庭園灯の僅かな明かりに照らされて、その光を反射している。 まるで、花自体が発光しているかのようだ。 わずかな光でも白い花は目立つ。 しかも、小さな花が何千何万と咲き乱れている様は圧巻だった。 緑の芝を踏むたびに足元が軽い音を立てる。 クルーゼは、白い樹影に歩み寄った。 時折、風がそよぐとフワリと舞う白いものがある。 樹の近くまで行ってそれが花びらで、花自体はごく薄く色づいていることを知った。 ちょうど満開なのだろう。もう少し風が吹けば、散る花びらが花吹雪のようになるのだが、クルーゼは未だそれを知らない。 開ききった花々の中心にある雌蕊が紅色をしているせいで、花全体が薄紅色に見えるのかと何気なく思った。 樹の名前も知らない。 思えば、花や樹木に思いを馳せることなど何年ぶりだろう。 いつの頃からか、周囲の自然や季節の移り変わりといったものに対する関心が全くなくなっていた。 (ああ、そうか・・・時間がないことを知った頃からだ・・・・・) 自分に見えない終わりがあることを知ってしまった頃からだった。 自分が生きることだけに精一杯だった。 終わりを考えるようになってから、常に何かに追われているような感覚があった。 一人ベッドに横たわり、眠りに落ちるとき、不安が胸をよぎるのだ。 明日の朝日をこの目で見ることができるのかという疑問。 落ちた太陽が再び昇るという自然の摂理を信じることができない。 そう、必ず訪れる季節の移ろいに苦い思いを抱くようになってから、敢えて見ないようにしてきたのかもしれない。 無意識のうちに―――。 それが、なぜ、今ごろになって再び関心を持つようになったのか。 終わりが形になってきたからか。 自分が望む形になりつつあるからか。 終わりが見えてきたからなのだろうか。 もう一度、周囲を見渡す余裕が生まれたのは。 (不思議なものだ・・・今更なのに。今更何を思えというのか・・・) 先刻の医師の言葉を思い出す。 自分を生み出されたとき、立ち会っていたという男。 当時、コロニーメンデルのGARM R&D研究所の研究員になったばかりの若者だったという。 C.E.55年、今から16年前、ブルーコスモスに研究所は襲撃されたが、当時の研究員の何人かが生き残った。 地球に降りた者もいれば、プラントに移り住んだ者もいる。 罪の意識からか、こうして自分の主治医となった医師もその一人だった。 最も憎むべき人間の一人とも言える。 だが、その者の力を借りなければ、生き続けることができないというのも事実だった。 その屈辱に耐えても、この状況に甘んじても、それでも自分には望みがあった。 クルーゼは、クローン研究のためのデータを取る素体として協力する見返りに、ドクターから症状を抑える薬や治療法を提供してもらう。 利害関係が一致した。 そう、それだけの関係だ。 そして、その医師もまた、コロニーメンデルで遺伝子操作に携わっていたことから、ブルーコスモスの標的となったため、プラント政府に保護を求めた。 その見返りに、研究の成果をプラントの遺伝子研究機関に譲渡しているのだ。もちろん、研究の素体となった被験者の身元は伏せたまま。 (吐き気がする・・・) 生命のあるべき姿を撓め、歪め、その本質をも変えてしまう人の業。人の欲望。 そうした一切が醜悪なものとしてクルーゼの目には映る。 そして、その澱んだ流れの真ん中に沈み込んでいくのが正に自分自身なのだ。 その黒く澱んだ流れの中で、もがき、苦しみ、救いを求めて手を伸ばす。 その手は空を掻くばかりで、すがるものの存在さえない。 そして、そのたびに思い知るのだ。 (―――私は独りだ・・・・・・) 冷たく凍っていく心。 心を閉ざし、己の望みだけをまっすぐ見つめていなければ、独りで立つことすらできない。 そうでなければ、孤独感に押しつぶされてしまう。 これは、自衛本能とでも言うものだった。 急に凍えるような寒さを感じ、クルーゼは己の肩を掻き抱いた。 風が吹く。 白い花々がざわめく。 一陣の風が吹きぬけた。 クルーゼは、とっさに目をつぶり、風に乱れた髪を手で押さえた。 一瞬の後に目を開けると、そこは吹雪の中だった。 何百何千という白い花びらが舞い散る。 クルーゼの周囲の醜悪な存在すべてを白く塗りつぶすかのように、花が降り注ぐ。 自分自身の存在をもかき消すかのように―――。 (このまま無くなってしまえれば・・・・・・) 花びらは雪のように降る。 (この身体を―――忌むべき存在を消してしまえたらいいのに) クルーゼの思考は、ひらひらと風に舞う白い花片に捉えられた。 ただ、立ち尽くす。 周囲は真っ白な絨毯のようだった。 時間が間延びするような感覚。 内へ内へと閉じていくクルーゼの思考。 閉ざされた世界が永遠に続くかのように思われた。 その時、彼の心を現実へと呼び戻したのは、いるはずのない部下の声だった。 |