休暇3 農業プラントの大部分を占める湖。 その沿岸の森の間に翼を広げた白鳥のように佇む白い建物がホテル「ヒュドリエル」だ。 「水」を意味するその名の通り、湖の畔に位置し、流線型をいたるところに取り入れた設計が特徴の建物だ。2階建ての低層ホテルは左右に長く、木立に隠れるようなたたずまいは、大人の隠れ家的な宿として人気が高い。 客層も家族向けというよりもある一定の資産を持つ層の人間か、金婚式を迎えた老夫婦がちょっと奮発してのんびりと休暇を過ごすために利用するといった場合が多いらしい。 ギルバートとレイは、2泊3日の予定でホテルに滞在した。 1日目は、チェスに興じたり、散歩をしたりしてのんびりと過ごした。 ホテル内のレストランで食事した後、部屋へ戻ろうとしてロビーを通りかかったレイが、ラウンジの窓際に置かれたグランドピアノに気づいた。 じっと見つめたまま歩みを止めてしまったレイにギルバートが苦笑した。 レイの耳元で囁く。 「弾きたいのかね?」 「いえ!…別に」 はっと振り向くと目の前にギルバートの優しい微笑があった。 「待っていなさい」 ギルバートは、その場にレイを残したまま、フロント脇のコンシェルジェデスクへ行って二言三言話をすると、すぐに戻ってきた。 「レイ。弾いておいで」 途端に笑顔になったレイをギルバートがいとおしげに見つめる。 「はい!」 今にも駆け出しそうな様子でいそいそとピアノに歩み寄る。ギルバートは手近なソファに腰を下ろしレイの指が奏でる音色に耳を傾けた。 ラウンジで食後のお茶を愉しんでいた客たちも会話を止めて、一時の心地よい音色に身を委ねた。 周囲に威圧感を与えないよう柱や観葉植物の陰に身を寄せて、ギルバートの護衛たちもいた。その中で、今回初めて議長警護に就いたトマスは、つい任務を忘れそうになるほど聞き惚れていた。 「……可憐だ」 うっとりと呟くトマスのすぐ隣で先輩護衛兵が奇妙な顔をした。眉根を寄せて厳しい顔なのだが、どこか笑いを堪えているように見えるのは気のせいだろうか。ピアノを弾く可憐な『少女』に視線が釘付けになっているトマスは、そんなことなど気づきもしない。 「お前…あの子のことまだ……」 気の毒そうにトマスを見やり、そのまま口をつぐんだ。 (知らないほうが幸せかもしれん) 面白そうだし、黙っていようと考えたのは、自分だけではないはずだ。もう、ここまでくると、若い兵の夢を壊さないでいてやるのも先輩としての務めなのかもしれない。 ため息混じりにそう思った。 3曲ほど弾き終えたレイが椅子から立ちあがるとたくさんの拍手が聞こえた。レイは驚いて周囲を見渡す。弾くのに夢中になっていて気が付かなかったが、いつの間にかラウンジは人でいっぱいになっていた。 どうしようか迷って、ギルバートの姿を探す。少し離れたソファで寛いでいるギルバートと視線が合う。彼が頷くのを見て、レイはラウンジの客たちに一礼し、ギルバートの席へ戻る。 「ありがとうございました」 「いや、こちらこそ。久しぶりに君の音が聴けてよかったよ」 にこりと微笑むギルバートにレイが、早くなった胸の鼓動を落ちつかせようと熱い息を吐く。 「私も楽しかったです」 紅茶で咽喉を潤しながら、幾分頬を上気させたレイが満面の笑みで応える。 「君は、本当にピアノが好きなんだね。アカデミーではこういう機会はないかな?」 「さすがに軍人には必要ないことですが、講義では、メンタルケアの視点からこうした趣味や娯楽も必要だと言っていました」 「なるほど、だから各軍施設では必ずピアノやヴァイオリンなどの楽器を備品として置いておくわけか…」 「兵士が任務中に精神的な安定を保つためには、余暇の過ごし方が非常に大切なのだそうです。一人でのんびりくつろいだり、家族や友人と過ごすことでリフレッシュになり、今後の任務への取り組み方も変わってくるのだそうです」 「―――よく、わかっているではないか」 「は?」 「そう、家族や恋人と過ごす休暇はとても大切なんだよ、私にとっても。―――初めは帰ってくる気さえなかっただろう?君は」 目を伏せて、悲しげな表情のギルバート。 「あ…いえ、その……」 この旅行のそもそもの発端を思い出し、レイが焦る。休暇とはいえ、帰る気などさらさらなかったレイは、言葉に詰まった。 ギルバートが拗ねてしまうのも無理はない。 「私もこうして君と過ごせるからこそ、今後の仕事へのやる気が出るというものだ」 「わ、私も…です!」 つい叫んでしまったレイに、ギルバートが会心の笑みを向けた。 (ああ…また、ギルの手の上で転がされているような気がする……) 自己嫌悪に陥りそうなレイの思考を止めたのは、ラウンジのウエイターの声だった。 「ご歓談中、失礼いたします。あちらのご婦人からこれを」 そう言って、ウエイターが小さなバラの花束を差し出す。 「私…にですか?」 「はい。素晴らしい音色のお礼だと仰っておられました」 レイは、びっくりした様子でギルの方に振り向く。 「せっかくのご好意だ。いただいておきなさい」 その言葉に頷き、花束を受け取り、ふわりと漂う薔薇の芳香を愉しむ。演奏中に急いで用意させたのだろう、その小さな花束は5本のミニバラと白いカスミ草をアレンジした簡単なものだったが、思わぬ贈り物にレイの顔が自然とほころぶ。 「伝言をお願いできますか」 「はい」 「その方に、ありがとうございます―――と、お伝えください。それから、よいご旅行になりますようにと」 「かしこまりました」 レイが、一礼して立ち去るウエイターの背を目線で追うと、贈り主のテーブルへ辿り着いた。ご婦人の顔を確認して、少しだけ微笑み頭を下げると、相手もまたにこやかな笑顔になった。 一方、柱の影では一部始終を見届けたトマスが、ぼそっと呟いていた。 「花と美少女……イイv」 「…お前、仕事しろよ?」 トマスは、同僚から白い目で見られていることに気付きもしなかった。 ◇ ◇ ◇ 2日目は、ホテルで昼食を作ってもらうと、林の中を湖畔まで歩いていくことにした。 「私が持ちます」 「いや、このくらい持てるよ」 軽食と食器類が入ったバスケットを軽々持ち上げて、ギルバートが先を歩く。ホテルの庭はそのまま林につながっており、湖まで出られるよう遊歩道があった。 新緑が眩しい季節だった。白樺の白い幹が美しく、風に揺れる枝葉がさわさわと軽い音を立てていた。 「この頃、デスクワークか会談ばかりでね。身体が鈍ってしまって仕方ない。周囲の目もあるし、屋外でのんびり寝転がるというのができなくてね」 レイがくすりと笑みを洩らす。 「だからと言って昼間からアルコールですか?」 バスケットからのぞくワインのボトルを見てレイが言う。 「このくらい大目にみてほしいな。堅苦しい仕事ばかりで、たまには羽を伸ばしたくなりもするさ」 苦笑するギルバートにレイが笑う。 「飲み過ぎなければ俺は構いませんよ」 結局、バスケットはギルバートが持ち、レイはその横に並んで林の中を歩いていった。 レイは、さりげなく視線を木立の中に走らせ、護衛の存在を確認する。距離をとってはいるが、ちゃんとサポートがある状況に安堵した。 湖畔までは歩いて5分ほどだ。途中、散歩をしている老夫婦とすれ違った。 「こんにちは」 「いいお天気ですね」 お互いに軽い会釈と共に挨拶を交わすと、ギルバートの顔を見た老夫婦が「おや」という顔をした。 テレビや雑誌でよく知った顔があったのだから当然だろう。 「これから湖へ行かれるの?」 にこやかに老婦人がレイに話し掛けた。 「はい。お二人は今行って来られたのですか」 レイが几帳面に答える。 「ええ。きれいなところでしたわ。ねえあなた」 「ああ。それこそ弁当でも持って来ればよかったなと、家内と話していたところですよ」 「お二人はこちらは初めて?」 ギルバートが老婦人に尋ねる。 「ええ、静かでよいところだと評判をききましてね。25回目の結婚記念日に主人がさそってくれたんですの」 「それは、おめでとうございます。お優しいご主人ですね」 いつもの完璧な笑顔で会話するギルバート。老婦人はその言葉にとても嬉しそうな顔をした。やはり、人を惹き付ける会話が巧いなとレイが傍らで思っていると、幾分、照れくさそうになった老紳士が「もう、そのへんで」と話し好きの妻を窘めた。 「良いご旅行になるといいですね」 「あなた方も」 そう言って別れた。レイは、ギルバートの身分に気づいていても、休暇中だと察してくれた老夫婦に感謝した。 「…幸せそうなご夫婦でしたね」 「羨ましいかい?」 「いえ―――自分にはよく分からないので…」 言葉を濁すレイ。 「そうか…」 そう一言洩らすと、ギルバートは片手を伸ばしレイの頭を撫でた。 ギルバートの脳裏を白い人物の姿が掠めた。 当たり前のように繰り返される毎日。 尖った岩肌に落ちる雫が年月を経て岩肌を滑らかにするように、一日一日繰り返される営みに背を向けずに生きた者だけに許される穏やかな「老い」。 穏やかな生。 それは、誰にでも平等に与えられたものではない。 自ら足掻き、戦い、勝ち取らなければ訪れない毎日もあることを知っている人間が一体どれだけいるだろうか。 当たり前だと言えてしまう人の傲慢。 「幸せ」という言葉の重みを知っていて、口にすることができる者。 レイ自身は別に意識しての言葉ではなかったのかもしれない。だが、ギルバートの心に刺さった小さな棘は抜けないまま、切ないような痛みをもたらしていた。 唐突に白樺の林が途切れた。 目の前が急に開けて、飛び込んできたのは水の広がり。湖面に反射した太陽光が小さな鏡をちりばめたようにキラキラと輝く。 一瞬、眩しさに目を細めたレイだが、美しい風景のすべてを視界に入れようと大きく目を見開く。水の輝きが映ったようにレイの眸に光が瞬く。薄紅色の肌は生き生きとして、艶やかな唇は、なにか言葉を紡ごうとしたまま薄く開かれた。 二人はしばらくの間、言葉なく立ち尽くしていた。 湖面を渡る風が涼をもたらし、ギルバートとレイの髪をそよがせる。 「…きれい…ですね」 レイの呟きにギルバートが微笑む。 「ああ。そうだな」 レイはまっすぐに水の連なりを見続けた。 「地球の大自然には到底及ばないが、水は母なる海を連想させるからね。見る人の心を和ませる」 プラント内の自然は人工的なものだ。 地球と比べるべくもないが、ここ農業プラントは周囲にビルや建造物がほとんどない分、視界に入るのは森と田園風景、そして湖だけだった。都市型の構造を持つほかのプラントと比べれば、自然は格段に多い。 「水は、特に地上から離れて暮らすことを余儀なくされた我々には、なくてはならないものだ。生きる糧という以外に心の平安を保つためにもね」 「還りたい…?」 「回帰思想かい?私には分からないが、地球に還りたい…母の胎内に帰りたいと思う気持ちが、果たして、我々コーディネイターにもあるのだろうか」 ギルバートの意外な言葉にレイが振り向く。 「ギルは、無い…と?」 「どうだろうね。無いとは言わないが、還るところが違うのではないかな。我々は、母の胎内から生まれたとはいえ、母胎を借りただけと言う者もいるな」 「それでも、羊水のあたたかさや人の心音を懐かしいと感じるのでしょう?」 ギルバートがクスリと笑みを洩らした。レイ自身の言葉と言うより、どこかの書物か映像番組で見聞きした言葉を口にしたのだろうと思った。 「自分の本能が知っているはずの母のあたたかさや心地よさに『代替』を見つけてしまったからな。我々は。―――それが罪か…」 最後の一言は隣に佇む少年の耳には届かないほど小さな呟きだった。 レイは、湖に視線を戻した。 「それでも…何も知らないよりはいいと思います。私は……」 レイの瞳は揺るがない。じっと一点を見つめたままだ。ギルバートは、目を伏せて吐息のような一言を洩らす。 「…そうだな」 レイは黙ったまま、湖を見つめていた。 二人は、水辺に手頃な木陰を見つけると、バスケットの中身を広げた。 柔らかな草の上に腰を下ろし、綿地の白い布の上には、ベーグルにチキン、数種類のチーズ、フルーツをあしらったサラダ。 そして、ワインのボトルを嬉しそうに取り出すギルバートにレイが呆れたような眼差しで見遣る。 「いいじゃないか。たまには」 「そう言って、夕べもお一人で1本空けていらっしゃいました」 「そうだったかな?」 慣れた手つきでコルクを抜いたギルバートは、レイの視線にもどこ吹く風でボトルを傾ける。 グラスに注がれた透明な液体。小さな気泡が音を立てる。 グラス3分目ほどまで注ぐとレイに差し出した。 「えっ…私はいいです」 慌てるレイにギルバートは満面の笑みで答えた。 「私一人を悪者にするつもりかい?飲めるんだろう?」 一応未成年なのだが…とは口には出さず、ギルバートの我が儘に結局つき合う羽目になったレイはため息をつく。 「……いただきます」 レイは仕方なくグラスを受けとった。アルコールを飲めないわけではない。ただ、飲み慣れていなかったので、昼間から飲んで醜態を晒すようなことにならなければいいなと思っただけだ。 「では、ギルの分は私が―――」 相手の分を注いでやろうとして、もう一つグラスを探したがバスケットの中には見当たらない。 「私はこのまま飲むからいいよ」 そう言って自分の口元へボトルを傾けるギルバートにレイが呆れたような声を出す。どうやら初めからそのつもりでグラスも1つしか用意させなかったらしい。 「お行儀が悪さはどなたに教わったんですか。私にはいろいろ言ったくせに」 「そんな昔のことは忘れた」 いくら休暇中とはいえ、昼間から酔っぱらっている議長の姿など他人に見られたくはない。 しかも瓶ごとラッパ飲みする最高評議会議長など―――。週刊誌記者は、女性関係を嗅ぎ廻るより、こちらの方がよほど面白いネタになるのではないだろうか。 「仮にもあなたは、わが国の最高指導者なんですから、そんな子供みたいなことやめてください」 昼間にアルコールが饗されることは、国の公式行事や午餐会などでは珍しいことでもない。ギルバートはそれを口には出さず、もともと生真面目なレイの子供らしい潔癖さからくる言葉を笑いながら聞いていた。尤もラッパ飲みすることなど公式の場では絶対あり得ないのだが、研究所生活が長かったせいか、人目のないところでは以外とラフな行動も多い。コーヒーを飲むのにポットが壊れたといって、実験用のビーカーで湯を沸かすのも平気な人種だ。今更、お行儀が云々と言われても全く反省する気配はない。 「これでも、議長になってからはだいぶ『お行儀』も良くなったんだけどね。議長には、休暇中に飲んだくれる権利もないと言うのかい?」 戯けてみせるギルバートにレイはとうとう吹き出した。 「ありません」 「ひどいな」 ギルバートが拗ねたように言う。ますます子供みたいだった。 「じゃあ…飲んでもいいですから、グラスを使ってください。まだ口をつけていませんから」 レイは諦めたように、自分のグラスを差し出した。 「君が飲んだら使わせてもらうよ。先に飲みたまえ」 「いえ、あなたが先に…」 「君の感想を聞きたいんだよ」 そう言われては、仕方がない。レイは少し躊躇ったあと、グラスに口をつけた。 ゆっくり口に含んで空気を抱き込むように舌で転がす。こんな飲み方を教えてくれたのもギルバートだった。程良い状態で発酵が進み、舌を程良く刺激する気泡が心地よい。 どちらかといえば甘口の部類にはいるのだろうか、糖度が高く、アルコール度はそれほど高くはない。 「…おいしい」 その言葉にギルバートがにこりと微笑む。 一口ずつゆっくり飲んでグラスを空にすると、ギルバートに手渡す。今度はレイがワインをグラスに注いでやった。 同じグラスを二人で使うことにレイは少しどきどきする。緊張と気恥ずかしさがごちゃまぜになったような落ちつかない気分だ。自分の唇が触れていた場所にギルバートの唇が触れるのは、間接的な口づけを連想させた。じっとギルバートの口元ばかりを見入ってしまい、視線に気付いたギルバートと目が合ってしまった。慌てて目をそらすと、チーズやサラダを取り分けながら別の話題をしようと口を開く。 「白もお好きなんですね」 「うん?」 「ワイン。赤の方をよく飲んでいらっしゃるので」 「ああ。白の方がくせがなくて飲み口が良いものが多いからね」 その言葉にアルコールをあまり飲み慣れていないレイを気遣って選んでくれたものだということに気付いた。 「ありがとうございます」 レイは、かすかに頬を染めると、とても嬉しそうに微笑んだ。 next |