ForbiddenBlood カズィクル・ベイの嘆き 【SAMPLE】


ムズラク将国とウラド王国の国境にある峠の一部には、まだ雪が残っていた。夏でも溶けない万年雪だ。
旅人が行き来する山道は、ムズラク側から一日ほど登ると峠にさしかかり、反対側へ半日ほど下ればウラド側の集落にたどり着く。さほど険しい道のりではないにも関わらず、人の往来が少ないのは、つい最近までウラド王国が鎖国していたからだ。
同じく国境を接しているバルトライン帝国からウラド王国へ入るには、馬も通れないほどの隘路を通らなくてはならず、古くからかなりの難所だった。過去に帝国の侵略を阻んだ天然の要害としても知られている。

トルキエ側からウラドへ入るための道は、帝国側に比べれば楽な道行きだが、この峠は昔から街道の中でも難所と言われてきた。その理由の一つが、妖(あやか)しの類が出る恐ろしい場所だと思われてきたことによる。死を招く泉の話や、村人を困らせていた化け物を退治した聖人の話、迷い込んだら生きて戻れぬ禁じられた谷などの伝承が残っている。そのせいか、岩ばかりで人気のない峠は、人を寄せ付けない雰囲気を常に漂わせ、この世とあの世の境だとも言われていた。
そんな恐ろしい峠を通り、こちらから向こうへと旅をする者はごくわずかで、峠を境にした北と南の両村の交流はほとんどなかった。

「この辺りは、正確にはどっちの領土なんですかね?」

半年前に来たときは、雪の降る季節だったので、交通手段は橇で別の街道を通ったが、今は夏。三人の旅人は馬に乗って山道を登っていた。途中、乗馬したままでは通行できない岩場が何カ所かあり、その都度、馬を引いて歩いた。

「峠が国境になるはずですから、まだムズラク領内です」

峠まではまだ半日かかる。トルキエ将国外事局長・犬鷲の将軍マフムートと、ポイニキアの耳役(クラック)キュロス、ヴェネディックの元私兵部隊隊長アビリガの三人は、トルキエ将国からウラド王国へ向かって旅をしている最中だった。

「確かこの辺りに村があったはずです。そこで今日は宿を借りましょう」

マフムートの言葉に空を見上げれば、太陽が西に傾きつつあるところだった。

「暗くなる前に村に入りたいですね。山は日が落ちるのが早いですから」

「賛成です。こんな山ン中じゃ、暗くなったら身動きとれませんぜ。早いとこ、メシにありつきたいし」

「あまり期待しない方がいいですよ。キュロス君が満足できるようなごちそうはたぶん無理でしょう」

アビリガが笑いながら言った。

「こういう辺鄙なところだからこそ、珍味があるんだよ」

相変わらず食に関することだと、前向きな姿勢になれるのはすごい。マフムートとアビリガは、忍び笑いを洩らす。

「山羊と羊の放牧で細々と自給自足の生活をしているような村ですよ。突然の来訪者が村の貴重な食料に手を出すわけにはいきません。ちゃんと携帯食を持参していますからそれで我慢してください」

「山羊のチーズとか美味いのに」

マフムートの言葉に、キュロスは口をとがらせた。山羊のチーズは多少癖はあるが、それがまた美味い、とキュロスが呟く。

「はいはい。チーズに余裕があれば分けてもらいましょうね」

マフムートも食いしん坊キュロスのあしらいに、だんだん慣れてきていた。アビリガが二人の様子を見て楽しげに口元を緩めている。
一行は、途中、岩場で腰掛けて休んでいる老人に会った。驢馬を二頭連れており、岩から流れる清水を飲ませているところだった。

「ほう、珍しい。こんな山奥で旅人に会うとは。あんた方、どこまで行くんじゃ?」

白髪の老人が気軽に声をかけてきた。

「この先のウラド王国までです。おじいさんは、カヤリク村の方ですか?」

「ああ、村へ戻るところじゃ」

話を聞くと、ムズラク将国の首都、東の町【シャルク】の市場で仕入れた塩を村へ運ぶ途中だという。

「そんな遠くから大変ですね」

「なあ、じいさん。こっからなら、ウラドの町の方が近いんじゃないか?」

「ウラドは長い間、鎖国していたっちゅう話じゃないか。交易が始まったって言っても塩の商人でもない儂らに売ってくれんじゃろう。東の町で仕入れてもいいんじゃが、ちと割高になるでの。港の町【リマン】まで足を伸ばすんじゃよ。そっちの方が安い値で買えるからのう」

「じいさん、一人か。連れはいねえのかよ? そんな大荷物で大丈夫か?」

「村を代表して一月に一度、羊毛や高原でしか採れない薬草を売りに町へ行くんじゃ。売った金で生活に必要な品々を買い求めて帰るんじゃよ。もう何年もやってるから、慣れたものじゃが、こいつらも儂も寄る年波には勝てんでの」

そう言って年老いた驢馬の首を撫でる。老人の引く驢馬の背には、うずたかく荷物が積まれていた。

「我々もカヤリク村へ立ち寄る予定なんです。よかったら荷物を少し持ちましょうか?」

「こりゃ、ありがたい。そうじゃ、あんた方の今夜の宿が決まってないなら、うちに泊まらんかね。大したもてなしはできんが、儂がつくった山羊のチーズがあるでよ」

「そりゃ、助かるぜ」

山羊のチーズと聞いて、もちろんキュロスに否やはない。

「ありがとうございます。ぜひお世話になります」

一行はこうして老人の後について、カヤリク村へ向かった。背の高い木はほとんどなく、岩の間に時折、低木の茂みがあるほかは、岩と砂礫の道が続く。日暮れと相まって、霧が出てきて視界が悪くなった。夏だというのに、かなり気温が低い。
老人に案内されてたどり着いたのは、村人が二十人ほどの小さな山村だった。固い岩肌をくりぬいて造った家屋が四つ、山の南斜面にへばりつくように点在している。家と家をつなぐのは、岩の側面に孔を空け、そこに丸太を打ち込みロープでつなげただけの木橋だ。すぐ下は切り立った谷底で、落ちたらひとたまりもない。

「オイオイ、こんなとこで羊が飼えるのか? 見たとこ岩ばっかじゃねえか」

「羊は谷底で放牧しとるんじゃよ」

老人が指さした先には、緑の草地が広がる小さな谷があった。盆地のように周囲をぐるりと山に囲まれていて、村から細く険しい道がジグザグに下まで伸びている。

「冬には辺り一面雪に覆われるからのぅ。村人の半分以上は羊の世話もあるで、夏のうちだけ谷下で暮らすんじゃよ」

谷下の草地には小さな白い点がいくつも一定方向に向かって動いていた。牧舎に戻る羊たちだろう。

「へぇ、道理で人気がないと思った」

キュロスの言葉通り、老人以外の村人の姿を見なかった。夕暮れ時でも炊事の煙も上がっていない。奇妙な静けさを肌に感じながら、余所見をしながら歩いていたマフムートが足元の丸太を踏み外す。

「うわっ」

「足元、気をつけてください」

丸太の隙間から真下のゴツゴツとした岩が見え、思わず冷や汗が出た。あの岩に身体を打ち付けたら無傷ではすまない。それどころか命があるかどうかだって怪しい。

「す、すみません」

アビリガが、マフムートの腕を掴んで引っ張り上げた。不安定な足場でアビリガにすがりつく羽目になったマフムートは思わず赤面する。一方。小柄とはいえ、マフムート一人を軽々と抱えても、アビリガはバランスを崩したりしなかった。

「えっ…あの、アビリガさん!?」

「じっとしていてください。暴れると落としてしまいます」
アビリガは、そのまま小荷物を抱えるように、主人の身体を小脇に抱えて歩き出す。軽い足取りで丸太橋を渡り終えてから、マフムートを地面に下ろした。

先に渡り終えていたキュロスが、何かもの言いたげにニヤニヤと口元を緩めている。キュロスと視線が合ったマフムートは、顔を真っ赤にして相手の眼前を遮るように手の平を突き出し、顔を背けた。

「な、何も言わなくていいです!」

「そうですか〜ぁ?」

アビリガとマフムートの仲睦まじい様子を冷やかすようなキュロスの口調はいつものことだ。だが、平然と受け流せるほどの余裕はマフムートにはまだない。
マフムートが思うに、アビリガは、キュロスの目があることを理解していてわざと、過剰なスキンシップを仕掛けてくるような気がしなくもない。理由はわからないが……。

一方で、お互いの行動の意図も理由もはっきりと認識しているアビリガとキュロスは、マフムートの一喜一憂する姿や動揺する姿を見て楽しそうに目を細めていた。
互いに違う方向に捩れてはいるが、両者ともいい性格をしていた。要するに、『好きな子にちょっかいを出す男子』という立場を楽しんでいるのだ。






その日は、老人の家で一晩の宿を借りることになった。家の若い衆は皆、羊の世話でしばらく戻ってこないとのことで、食事は簡素なものだったが、自家製の山羊のチーズが食卓に供され、キュロスがその味を絶賛した。食後には温かなお茶がふるまわれた。

「へえ? お茶にミルクを入れるのか」

「乳茶ですか? ここで味わえるとは思ってもいませんでした」

アビリガは感心しながら、あたたかな湯気が立ち上るカップに口をつけた。キュロスもふーふーと吹いて茶をさましつつ、一口飲む。

「……ッ!?」

二人同時に顔をしかめて、口をへの字にした。

「なんだ、コレ!?」

「し……塩辛い乳茶は初めてです。しかも、茶葉が紅茶ではない…ですよね?」

乳茶と言えば、ヴェネディックでは、紅茶にミルクを入れる。もともとは茶葉を産する熱帯の国の飲み方だが、交易を通じて央海にも伝わってきた。砂糖は贅沢品なので、めったに味わうことはできなかったが、暑い国ではエネルギー補給のために乳茶に砂糖をたっぷりと入れることが定着しているという。

「おや、お二人は初めてですか?」

平然と塩入り乳茶を味わうマフムートは、アビリガとキュロスの顔を見てクスリと笑う。 

「ちょっ……平気なんスか?」

「ええ。草原の遊牧民は、昔から緑茶にミルクと岩塩を入れて飲むんです。山岳地帯でも同じようですね。海から遠く離れた土地では、常に塩が不足しますから、一日十回以上、お茶の時間があるんですよ」

「この茶葉は、緑茶なんですか?」

「ほうほう、そっちの二人は外国の方じゃったか。それじゃ知らんでも仕方ないのう。こんな山奥じゃ、新鮮な果物や野菜は採れないからのう。茶で代用しとるんじゃ。ホレこれが茶の葉じゃ」

そういって老人が見せたのは、日干し煉瓦のような形の緑茶の塊だった。非常に固く、それをナイフで少しずつ削って沸かした湯の鍋に入れるのだという。

「こちらでは四角なのですね。私の村では、球を上からつぶしたような丸い形をしていました」

マフムートが懐かしそうに老人の手元を見つめる。

「ほう。ところ変われば品変わるとはよく言ったもんじゃ。お茶の葉一つ取っても様々じゃのう。疲れたときには、乳茶が一番じゃよ」

老人は、そういってお代わりを注いでくれた。美味しそうに茶を飲むマフムートを横目で見て、キュロスも乳茶を飲み干す。

「うん、まあ、コレはコレでイケルかもな」

流石、その土地の珍味を食べ尽くすつもりの人間は違う。早くも塩味の乳茶に順応したキュロスは、ポットからさらにもう一杯を自分の手で注ぐ。

「そういえば、緑茶は、大秦が産地じゃありませんでしたか? 大秦からの主要な交易品の一つですよね」

アビリガが思い出したように言った。

「そうかの? 儂は詳しいことは知らんが、いつも塩と一緒に港の町で仕入れてくるんじゃ」

「じいさんたちにとっちゃ、生活の必需品なんだろう? もっと近くの村で仕入れることはできないのか? トルキエに茶の産地はないのかよ?」

「下の村でも余所から仕入れているはずじゃ。近くで作っているところなんぞ聞いたことがないわ」

「気候が合わないので無理なようですよ。温暖で適度な雨が降る土地柄じゃないと茶の樹が育たないって聞いたことがあります」

マフムートが老人の代わりに答えた。

「へえ? 大変だな」

「この辺りはだいぶ高地ですから、さすがに夏でも冷えますね。これでは、商品作物の栽培は無理でしょう」

アビリガも厳しい気候の土地で生活の糧を見いだすことの大変さを指摘した。

「ああ、もっと下の村ならまだ良かったかもしれんが、ここじゃ耕す場所がないわい」
気象条件もそうだが、ある程度の広さがある耕地がなければどうにもならない。岩ばかりの土地柄では、農業はまず無理だった。

「塩だって、わざわざ港の町まで行かなくても、こんだけの山なら岩塩が採れてもおかしくないんじゃないか?」

「この山に暮らして七十年になるが、岩塩が採れる話は聞いたことがないのう。もしあるなら、採掘して一財産もうけて村はもっと栄えておるわい!」

あっけらかんと笑って老人は手を打った。

「さあさ、夜も更けた。あんた方は、そっちの部屋を使ってくれ。二人部屋だからちいっと狭いかもしれんが勘弁してくれ」

「一緒に使いますから大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」

マフムートの肩を抱いて、そう言ったのはアビリガだ。

(ん?)

何かさらりと言われたが気のせいだろうか。

「ああ、そうするとええじゃろ。くっついて眠った方が暖かいでの」

「そうします」

にこやかにアビリガが答えた。夏の夜でも、高い山地は冬並みに冷える。暖かな毛布や暖房が欠かせないのは確かだ。しかも、暖房用の薪にも不自由するこの村では、とにかく家族は固まって一緒に眠った方が良かった。それは生活の知恵でもあった。

「は?」

唖然としたままのマフムートを余所にキュロスも口を挟む。

「お前はデカイんだから、俺とマフムート将軍が一緒の方がいいんじゃねえか? 布団からはみ出しちまうと寒いだろ?」

「いえ、ご心配なさらず。抱きしめて寝ますから落ちる心配はありません」

アビリガの手はしっかりとマフムートの肩に置かれている。その手の位置を胡乱な目で見ているキュロスは、片方の眉をピクピクと引きつらせた。マフムートを挟んで、二人の間で火花が散っているのは、気のせいだろうか。

「ああ、そうじゃ。言い忘れるとこじゃったが、夜の間は外に出ちゃなんねえぞ」

「?」

「最近、山向こうの化け物がこっちにまで現れるという話じゃ。夜は特に近づかん方がええ」

「山向こうというと、ウラド王国ですか?」

「さあて? 儂も詳しくは知らんがの。峠向こうの村じゃあ、若い娘が化け物に殺されたっちゅう噂もあるでよ。もともと峠近くには化け物が出ると言われておる。峠っつーのはあの世とこの世の境みたいなもんじゃからな」

峠は様々な境界となっている。国境線はもちろん、地理的にも登りと下りの境だ。そして、峠は人の生活習慣や言語の境界でもあった。地理的も民俗学的にも境界となるその場所で、なにか不可思議なことが起きたとしても無理はないと、人々は思うようだ。
老人は決して冗談を言っているわけではない。本当に化け物の存在を信じていて、忠告してくれていることが分かったので、マフムートは老人の言葉を真摯に受け止めた。普段なら一言ありそうなキュロスも、今回は茶化すような真似はしなかった。

「その化け物について他に知っていることはありませんか? 姿とか特徴とか。あと、変な病人が増えていると聞いたことありませんか?」

「……なんで、そんなことを聞くね? そういやぁ、あんた方、見たとこ商人にも見えんが、あん国へ何しに行くだかね?」

見ず知らずの旅人を快く招き入れてくれた老人の目に初めて警戒の色が浮かんだ。マフムートたちは、商人にしては売る品物を持っておらず、人種も服装もバラバラだ。老人が警戒するのも無理はない。――いささか気づくのが遅い気もするが――化け物の話をした後だけに、老人も不安になったのだろう。マフムートは一歩前へ進み出て老人の問いに答えるべく口を開いた。

「我々が、用があるのは、その化け物なんです」

老人が目を丸くした。そもそもマフムートたち三人は、その化け物の謎を解くためにウラド王国へ向かっていたのだ。





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