マフムートが身分を明かし、調査のために同盟国へ赴くことを打ち明けると、老人はようやく安堵した様子だった。 「そんなにちっこいお方がトルキエの将軍様だったとは驚きじゃ! ひょっとして、あんたが、噂の犬鷲の将軍かね?」 「どんな噂か聞くのが怖い気がしますが――そうです」 「そうかい、あんたがあのマフムート将軍かい。道理で犬鷲を連れていると思ったよ」 マフムートの肩の上で、イスカンダルが鳴いた。 「それじゃ、あんた方のお役に立つかどうかは、分からんが……ウラド王国の鎖国が解かれてからこっち、奇妙な噂があるんじゃよ」 「奇妙な噂?」 「とにかく今まで隣の国とは行き来がなかったでの。最初に聞いたときは、そりゃあたまげたもんじゃ。なんでも、峠向こうの村じゃあ、病気になると元気な人の血を飲むんだそうじゃ。そうすると病はたちどころに治るってな」 「血を……飲む?」 三人は老人の話に思わず顔を見合わせた。 「血は命の源じゃ。血がなけりゃ生きていけんのはわかる。儂らも羊を絞めるときは、血の一滴まで大事にせにゃならんってことで、一滴の血も大地に流さんようにやる。そのあと、血は腸詰めにするし、羊は余すところなく使う。だがなあ……人間の血を喰らうなんて恐ろしいことは考えたこともねえ」 老人は、口に出すのも憚られるようにぶるっと身体を震わせた。 「人間の血が薬として役に立つってことか? ……なんかの呪(まじな)いか」 キュロスの顔も強ばっていた。聞いていてあまり気持ちの良い話ではない。 「本当かどうかは知らんがね。まあ、峠から向こうのことは、儂らには関係ないでのぉ。でも、これからあっち側へ行くなら、あんた方は気をつけた方がええぞ」 「そうですね。ご忠告ありがとうございます」 マフムートが神妙な面持ちで頷いた。老人の話に背筋が寒くなったところで、夜も更けてきたので、三人は寝床を借りて休むことにした。夏の間、羊の世話で不在になるという息子夫婦の部屋を借りる。固い岩盤を削って造った部屋の壁面を覆うように、刺繍が施された布地が数枚掛けられていた。この家の女性たちの手仕事によるものだろう。 羊毛でつくったフェルトの絨毯の上に、布団が二組、畳んで置かれていた。布団を広げたところで、一つ、問題が浮上した。布団は二組しかないので、誰が誰と一緒に寝るかという問題だ。「どうせ男同士なんだから、別に誰と寝ても気にならない」と言い出す者は誰もいなかった。要は、マフムートが誰と一緒の布団で寝るかという議論なのだ。 「だから、さっきも言っただろ? デカイお前とちっこいこの人じゃ、将軍が気の毒だって」 ――誰が小さいですって!? と、マフムートが口を挟む余裕もなく、二人の舌戦が続く。 「ですから、私は誰かさんと違って寝相はいい方ですから、ご主人様(パドローネ)に迷惑などかけませんよ」 「ハア!? 下心ないって言い切れんのかよ?」 「その言葉、そっくりキュロス君にお返しします」 「返される覚えはねえな。マフムート将軍の(貞操の)安全確保も仕事の内なんでな」 「ご主人様にだって、プライベートな時間というものがありますよ」 「三人で行動してるんだから、慎みをもてって言ってんだよ!」 ――というか、本人目の前にして言い合う内容じゃないでしょう!? マフムートは口をぱくぱくさせたが、呆れて言いたいことがちゃんとした声にはならなかった。 「キュロス君の口から慎みだなんて言葉が聞けるとは意外です。でも、仲間に入れてほしいなら、そう言ってくれればいいのに」 アビリガの手がするりと伸びてマフムートの腰を抱き寄せた。 「だっ…! だれが!!」 「ちょっ……アビリガさん!?」 マフムートは真っ赤になって動揺したが、なぜか抗うことはしない。それがますますキュロスの勘に障るようで、額に青筋が浮かんだ。今にもブチッと切れる音がしそうだ。 「つうか、アンタも抵抗しろよ!」 「あ、すみません」 理不尽なとばっちりがマフムートの方にも来たが、迫力に負けてとっさに謝ってしまった。実際、そんなことを言われても困るのだが、なんとなく、二人の仲はキュロス公認になっていたので、気づかぬうちにスキンシップが過剰になっていたのかもしれない。 「まあまあ、キュロス君。ここは一つご主人様に選んでもらいましょう」 キュロスの怒りの矛先が、愛する主人の方へ向いてしまったので、とっさに間を取ろうとしたアビリガだったが、すぐに自らの発言を悔やむことになる。 「では、ご主人様。どちらと一緒に?」 「俺は、正しい選択をしてくれるって信じてますよ」 鼻息も荒く、キュロスが言った。マフムートは二人を交互に見つめて、息を一つ吐いた。 「では、アビリガさんとキュロスさん、二人で仲良くどうぞ。私は一人で平気です」 マフムートが片方の布団を指さしてにっこり口だけで笑う。アビリガとキュロスは思わず顔を見合わせ、口を微妙にねじ曲げた。平静を保とうと失敗して微妙に嫌そうな感じの表情になったのが、アビリガ。そして、思い切り口をへの字に曲げて、これ以上ないくらい眉根に皺を寄せて目をつり上げたのが、キュロスだった。 「………」 二人とも意表を突かれたようで、二の句が継げない状態だ。言い出したのが自分たちなだけに、どうしようもない。 「……冗談きついぜ?」 「ご主人様……それは、ちょっと……」 ほぼ懇願に近い形で手を合わせたアビリガに、マフムートは大きく息を吐いた。 「仕方ありませんね。では、布団を二つ並べて公平に三人で使いましょう。私が真ん中になりますから」 大秦の言語に明るい者がこの場にいたら、『川の字』という表現をしたことだろう。残念ながら三人とも漢字文化圏の人間ではなかったので、この寝方に呼び名があり、主に夫婦が子どもを間に挟んで眠るときの情景から成り立った用語だということを知らなかった。 「これで文句はありませんね?」 マフムートが二つの布団を引っ張ってきて羊毛の絨毯の上でくっつけると、真ん中にぺたりと座って二人を見上げた。その眼差しに有無を言わさぬ迫力を感じたので、二人は素直に従うしかなかった。 真夜中、皆が寝静まった頃、遠くからかすかに狼の遠吠えが聞こえた。 マフムートがウトウトしかけて、ふと気づけばアビリガが背後から自分を抱き寄せるように身体をぴたりと合わせていた。最初は三人並んでまっすぐに寝ていたはずなのにいつの間にか、二人はくっついて眠っていたようだ。 マフムートの首筋に、後ろからアビリガが顔を埋めるようにしているので、吐息が妙にくすぐったい。確かに暖かいが、これでは落ち着かない。 起こさないように身体を離そうとしたが、アビリガの腕がしっかりと腰に回されているので、身動きがとれない。寝ぼけて抱き枕かなにかだと勘違いしているのかと思っていたが、アビリガの吐息が寝息ではないことに気づく。 注意しようかどうか迷ったが、声を出して隣のキュロスを起こすのはまずい。こんな光景を見られたら、何を言われるか分からないからだ。 「ん……」 だが、次第に首の後ろに感じるのは吐息だけでなくなっていく。髪の生え際を撫でるように唇が触れ、首筋をかすめるように辿られた。耳の下の熱く脈打つ動脈の上に柔らかな唇が触れる。マフムートを抱きしめる手は、服の隙間から滑るように忍び込み、脇腹から胸を撫でた。マフムートは、じわじわと満たされ溢れていく感情を堪え、声に出さず喘いだ。 すぐ横でキュロスが眠っているというのに、不謹慎な行為を拒めない。いや、抗おうとすればできたはずなのに、それをしなかった。 胸から喉元を愛撫するアビリガの手の甲を軽くつねった。すると悪戯な手の動きは止まり、ただ抱きしめるだけになった。マフムートはアビリガの手にゆっくりと手を重ね、指を絡めた。そして、ただ情欲のままに煽られていくのではない、なんともいえない心地よさに目を閉じた。 他人の熱が心地よい――触れられることが嬉しい。 ――満たされる感情を睡魔が包み込む。 とろとろと蜜がしたたるような、甘い眠りに誘われ、マフムートは再び眠りの底に落ちていった。 耳元でアビリガが苦笑したような気がしたが、マフムートには、それが夢か現か判断できなかった。 ※続きは「ForbiddenBlood カズィクル・ベイの嘆き」にて。 |