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海には霧が出ていた。その霧は運河を通じて街の中にも流れ込み、海の都をすっかり包んでいた。

いつもだったらこんな霧の夜更けに出歩く者もいないが、祭りの名残か、遅くまで飲んでいた男達がおぼつかない足どりで家路へと向かう姿がちらほらと見受けられた。
酔ったまま道を踏み外して運河へ落ちたら命に関わる。そう周囲の者が判断し、帰宅をやめさせ、そのまま飲み屋で夜明かしする者も多かった。

街は静まりかえっていた。夜回りの警邏が手にしたランプの灯りがぼんやりと白い闇に浮かび上がる。その闇の中を影から影へと渡る存在があった。

アビリガは、人気のなくなった街をすべるように駆けていた。夜霧の中、数メートル先の視界がほとんどないような場所で躊躇いもなく走ることができるのは、ひとえにアビリガの身体能力の高さ所以だ。
歩く時でも走る時でもほとんど音をたてないのは長年培った経験のせいか。足音だけのことで言うなら、昼間マフムート達と連れだって歩く時はわざと足音を立てるようにしている。不思議と今の主人の周りには気配に敏感な者が集まるらしく、下手に気配を消して近づくと条件反射で攻撃されかねないからだ。マフムートの行く先々に同行するようになってからは周囲に余計な警戒を周囲にさせないために、特に気を配っていた。どこで怪しまれるか分からないからだ。これは、足音を殺すことが習い性になっているアビリガにとって、意識的に行わなければならないことでもある。

アビリガは、黒一色の衣に頭まで覆うフード付きの外套、そして昼間の仮面とは違い、覆面をしていた。カーニバルの参加者が仮装のために使う、顔全てを覆う無表情な白い仮面ではない。目元を隠すため、顔の上部を覆うだけの黒い布だ。全身真っ黒なその姿は不吉な黒衣の暗殺者にも見えた。

アビリガが向かったのは、水の社のすぐ近くにある宮殿のような大きな建物だ。
ヴェネディック共和国は五つの街区から成る。水の街区には水の社があり、その近くに元首官邸(パラッツオ・ドゥカーレ)がある。ヴェネディックの政治の中心であり、国家元首の住む家でもある。家と言ってもその規模は宮殿と呼べるほどの美しさと威容を誇る。

元首は、二十五歳以上の全ての共和貴族(ノービレ)で構成された共和国会(コンシーリオ)から選出された国の最高執政官である。終身任期で、ドージェ評議員と呼ばれる五人が元首を補佐する。ドージェ評議員は、水、火、金、木、土の五つの街区から一人ずつ選出される。官邸内には、いくつもの部屋があり、内政・外交・裁判などに関するあらゆることが各部屋で決定される。

夜霧は元首官邸も包み、四つ葉の柱頭が美しい回廊を覆い隠していた。霧にまぎれて黒い影が回廊を素早く横切ったことに気付いた者はいなかった。




静まりかえった元首官邸の一室。ここに部屋があることを知るのは、官邸の主の他は、ごく限られた者だけだった。公にできない謀議などに使われるその部屋には、今、三人の男がいた。

そのうちの一人が、口を開く。男にしては繊細な指には、翼を持つ獅子が刻まれた指輪があった。


「報告は受けている。彼は、期待した以上の働きをしてくれたようだね。我々の選択は間違っていなかったようだ」

緩やかな巻き毛は、豪奢な金髪。男の纏うローブの裾には指輪と同じ獅子の意匠が刺繍されている。翼の生えた獅子の意匠を身に付けることが許されるのは、この国の元首のみだ。ヴェネディック共和国元首アントニオ・ルチオは、傍に立つ黒衣の男に視線を向けた。

「君から見て彼はどう? 最初の頃と印象は変わったかな?」

そう問われた男―――アビリガは、顔を覆う布を取り払って答えた。

「面白いですよ」

「面白い?」

「毎日、新しい発見があります。一度覚悟を決めた時の、彼の精神力の強さは目を瞠るものがありますね」

「そのようだね。まさか四将国の反乱を治めてしまうとは思わなかった。あの劣勢を覆すだけの覚悟と意志と目算があったということかな」

「目先の目的のために大義を失うことはないところは、若いながら感心しました」

「ほう?」

「四将国の反乱鎮圧に関していえば、あれは目的にはなりえない。手段のようなものでした。帝国の侵攻をくい止めるための。彼は、戦いの先を常に見ています。そのために手段を選ばないのは良い傾向ではないかと」

「あえて王道を往くことはない、ということかな」

「ええ。暗殺という手段が有効ならば、それを選択できるのは、本来の目的を見失っていない証拠ですから」

「国を守るためなら綺麗も汚いもないからね。最初にここで会った時は、潔癖すぎる嫌いがあったけれど、いい感じになってきたじゃないか。それに、例の一件での手腕は見事だったと言わざるを得ない」

例の一件を思い出し、ルチオが苦く笑う。遠く銀色の都からまんまと操られ、帝国と敵対することになった一件はルチオにとっても苦い思い出である。帝国の脅威を考えれば、いずれは敵対する可能性も視野に入れてはいたが、他国の策略でそうした状況に追い込まれたことは口惜しい限りだ。自分達が見込んだ人物の手並みの鮮やかさに、満足するのと同時に口惜しさを感じるという複雑な心境だった。

「彼の下で働くことは苦ではありません。むしろ楽しさすら感じることがあります」

「随分とご執心のようだね。ふふ、ブレガは、複雑なんじゃないかな?」

ちらりと横に立つ男の顔を見た。ずっと黙って話を聞くだけだった男は敢えて沈黙を保つ。ヴェネディック海軍を率いて帝国と戦った総船団長シルヴェストロ・ブレガは、アビリガの才能を最初に見出した人物である。
ルチオは、ブレガが答えないことなど最初から分かっていた様子で、再びアビリガに向き直った。

「一つ、いいかな」

「なんでしょう」

「例の一件で、事前に報告がなかった理由を聞きたい」
ルチオの口調は静かだった。例の一件――トルキエのマフムート将軍による、対帝国の経済戦略で、ヴェネディックはサロスの小麦を巡ってポイニキア駐留の帝国海軍と交戦状態に入った。マフムートの傍にいてアビリガがそのことを知らなかったはずがないとルチオは指摘しているのだ。

「必要でしたか? 央海一の商業国家ヴェネディックの元首である貴方に」

アビリガの口元には微笑すら浮かぶ。優れた情報網を持つヴェネディックの最高執政官への挑戦ともとれる発言に、ルチオの口元には隠微な笑みが浮かぶ。
アビリガが母国から与えられた役割は、共和国会が選んだマフムートの器を測ること。自分は単なるスパイなどではないと、アビリガのその眼が告げていた。

「なるほど、君はやはり優秀だ」

「恐縮です」

アビリガが胸に手を当てて恭しく一礼した。

「ここに来ていることを、彼には?」

「言ってはいません。が――」

一旦言葉を切って、アビリガは肩をすくめた。

「おそらく気付いていると思いますよ」

何も言っていないけれどマフムートはおそらく気付いている。黙認してくれているのは、トルキエ将国にとって害になるような行為ではないと判断したからだろう。万一、この密会が帝国に協力してトルキエを攻めるというような内容のものだったとしたら、彼は躊躇なくアビリガを切るはずだ。
そうであってくれないと困る。

(――躊躇されでもしたら困ってしまいますからね。変な勘違いをしてしまいそうだ)

アビリガは内心苦笑した。個人の感情よりも優先させなくてはいけないことがある。それはマフムートも自分も身に染みて分かっているはずだ。

「そう。時間があれば先に彼に会いたかったけれど、そうも言っていられない状況になってね」

今までどこか楽しげな口調だったルチオの表情が真剣なものになった。

「ドージェ、説明は私から」

今まで沈黙していたブレガがここでようやく口を開いた。

「頼むよ」

ルチオは、ブレガに主導権を譲った。








その夜、寝起きの悪い彼にとって極めて希なことだったが、マフムートは真夜中に目が覚めてしまった。隣の寝台を見ると、アビリガの姿がない。

マフムート達が宿泊しているのは、ブレガ商会が所有する宿である。宿屋と食堂を兼ねたこの店は、商用でヴェネディックを訪れる外国人がよく使うこともあり、マフムート達が出入りしていても怪しまれることはない。アビリガとも旧知だという宿の主人は口が堅く、融通が利くということで、身元を隠す必要があるアビリガにとっても条件のよい宿だった。

アビリガが予測した通り、夜になると霧が出てきて視界が悪くなったため、三人は早めに宿に戻った。夕食後、部屋に戻ったマフムートはイスカンダルの給餌をし、キュロスは食後のデザート代わりにトマトと香草とチーズが乗ったピッツァをつまんだり、胡椒のたっぷりかかったピリ辛の骨付き肉を平らげた。アビリガは、宿屋の主人に用があると言って部屋を出て、しばらくすると戻ってきた。結局、夜霧のせいで出歩くのを控え、三人は早々に床についたのだった。

ヴェネディックに来てから、彼が毎夜のように出掛けていることには気付いていた。昼間、表立って行動ができない分、どうしても夜動かなくてはいけないのだろうということは推測できた。行き先を告げられたことはないが、検討はついている。だが、なぜか今夜は胸が騒いだ。

(……なんだろう? 嫌な感じだ)

マフムートは起き出した。暑くないのに寝汗をかいており、なぜか心臓の鼓動が早く感じられた。
気配に気付いてイスカンダルがこちらを向いて羽をばたつかせたが、マフムートはその場にいるように身振りで指示した。この視界の悪さでは、イスカンダルを連れて行っても空からの探索はできない。

キュロスを起こさないように静かに着替えて、アビリガの姿を捜し一人で外に出た。霧はますます深くなっていて、暗い街は人気もなくひっそりと静まりかえっていた。手にしたランプの光でも少し先までしか見渡せない。

この街に滞在して五日目、だいたいの地理も頭に入ってきて、ようやく宿と元首官邸の周りなら迷わずに歩けるようになったとはいえ、暗い霧の夜道を一人で歩き回れるほどではない。夜霧の中、ブラウス一枚では少し肌寒く、マフムートは外套を着てくるのだったと後悔した。

しっとりと濡れた石畳を歩き、小さな水路にかかるアーチ型の橋までやってきた。宿のある人工島と隣の島を結ぶ橋の一つだ。石造りの欄干に刻まれた橋の名称で、位置を確認したマフムートが渡ろうと一歩踏み出した時だった。突然、人の気配を背後に感じた。

「アビリガさん?」

近づいてくる気配にマフムートは振り向かずに尋ねた。直前までアビリガの足音も気配もしなかったが、いつものことなので気にしない。

「ご主人様」

やはりアビリガの声だ。少しほっとし、思わず腰の剣に掛けてしまった手を離す。
いつものように呼ばれただけなのに、今夜のアビリガは何か違った。声が固いというか、緊張しているように感じられたのだ。

「どうかしたんですか?」

何か違和感を覚えてマフムートは振り向こうとした。その耳元にアビリガが小さく囁いた。

「すみません。このままで」

「……え?」

アビリガの表情を見ようと振り向こうとしたマフムートだったが、それは叶わなかった。
しなやかな腕が背後の霧の中から現れ、身体に絡みつく。そのままゆっくりと流れるように背中から引き寄せられた。バランスを崩しそうになった背を支えたのは広い胸。すっぽりと包まれたことで抱き寄せられたと知る。

手にしたランプをアビリガの手が絡め取り、蝋燭の火を吹き消す。途端に視界は奪われ暗闇と霧に世界は覆われた。

「……アビリガさん……?」

そして、気付く。血の臭いに。

「アビリガさん、どこか怪我を!?」

慌てて顔だけを振り向かせようとして、視界を塞がれた。他ならぬアビリガの手で。

「少しだけ…何も言わずにこうしていてください……」

きつく抱きしめられた。
マフムートはその声に逆らうこともできず、ただ背に感じる温もりに身を預けるしかなかった。視界を塞いでいた手は外されたが、なぜか振り向くことができない。ただ理由も分からず抱きしめられることに、マフムートの中で不安感が増す。

「アビリガさん……戻ってきますよね?」

返事はなかった。

マフムートは問い掛けた直後にひどく後悔した。とっさに口に出してしまった言葉は、マフムートがずっと無意識のうちに怖れていたことだったのかもしれない。

そして、ふっと腕の重みを感じなくなったと思った瞬間、アビリガの気配が消えた。

振り返ったマフムートの視界からアビリガの姿は忽然と消えていた。まるで今の出来事が幻だったかのように、絡みつく夜霧が思考を霞ませるような気がした。








続きは、2010冬コミ発行の「Quadrifoglio」にて。


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