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央海(セントロ)随一の商業国家として名を馳せるヴェネディック共和国は、干潟の上につくられた人工島が集まってできた都市国家である。

百五十を超える運河や水路が縦横に走り、四百もの橋が島々をつないでいる。地上は迷路のように曲がりくねった路地が多く、初めてこの地を訪れる者たちは決まって迷子になるほどだ。
『海の都』と言うだけあって、地上を行くよりも運河を通って目的地を目指した方が確実ということもあり、人や物を運ぶ主役は手漕ぎのゴンドラである。

都の真ん中をS字形に流れる大運河に面して石造りの邸宅が建ち並ぶ。都の中でも一際大きな邸宅が連なるここは、海の都の目抜き通りである。ここに屋敷を構えるのはほとんどが共和貴族であり、庶民が暮らす集合住宅と違って、壁や柱には美しい彫刻や装飾が施されていた。

大運河に架かる橋のたもとに建つ屋敷の一室。

この屋敷の主も共和貴族に名を連ねる都の名士であり、いくつもの屋敷や船を所有する大商人でもあった。彼は今、書斎に籠もり、小さな巻紙を食い入るように見ていた。
部屋の中には、東国から取り寄せた美しい幾何学模様の絨毯が敷き詰められており、シルク特有の光沢を放つ。机の上では、繊細なガラスのランプの中で炎が揺れている。ランプの覆いはガラス製で、この都の特産品だ。
彼の深い苦悩を示すように、眉間に刻まれた皺がくっきりと影をつくり出していた。溜息とともにランプの炎が微かに揺れる。

「なんてことだ……」

すでに初老に差しかかかった男の髪には白いものが目立つ。男は、節くれだった大きな手の中で小さな巻紙を握りつぶした。

「今はこんなことが諸外国に知られるわけにはいかん。なんとかせねば」

くしゃくしゃになった巻紙をランプの炎に翳した。チリチリと音を立てて巻紙が燃え、男はそれを火の絶えた暖炉の中に投げ入れた。

小さな巻紙はあっという間に灰になり、崩れて消えた。







大運河にはたくさんのゴンドラが行き交っていた。小さな舟から豪華な天蓋付きのゴンドラまでその種類は様々だ。豪奢な衣装で着飾った人々が舟に乗り込み、カーニバルと呼ばれるヴェネディックの祭りを楽しんでいた。
そのうちの一つにトルキエの将軍マフムートの一行は乗っていた。

「華やかですね」

マフムートが感歎の声を上げる。

「一年で一番に賑やかな時期ですからね。この祭り目当てに大勢の観光客もやってきているんですよ」

そう説明した男は、黒地に金の房飾りがついた衣装に顔の上半分を覆い隠す仮面をつけている。僅かに覗く肌の色から、央海の南方の大陸出身だろうと思われたが、彼は歴としたヴェネディック人である。かつてこの都で随一の実力を誇った私兵隊長だ。だが、素顔を隠した彼の正体を声だけで見破ることができる者はまずいない。
国外追放されたアビリガがこの祭りの時期にヴェネディックに密かに入国できたのは幸いだった。ヴェネディックの名物ともなった仮装のおかげで素顔を隠す手段が山ほどあるからだ。

この水の都で一番の大きな運河には、仮装を楽しむ者、それを見て酒杯を傾ける見物客ら船を繰り出していた。彼らは、すれ違う舟に手を振ったり、衣装を褒め合ったりしている。
衣装も見事だが、その仮面の細工にも目を瞠るものがあった。白地の仮面に太陽や月を黄金色で象ったもの、黒地に赤や金色の縁取りをして本物の花をあしらったもの、色もデザインも多種多様だ。光沢のある天鵞絨の帽子には色とりどりの大きな羽根飾りがついていて、風に揺れている。

「派手っつーか、悪趣味っつーか……」

舟縁に頬杖をついて、悪態をつくのはポイニキア出身のキュロスだ。流石に滞在五日目になると、この仮装した人の群れには慣れたが、仮面の異様さには少し辟易してきていた。

三人の乗ったゴンドラのすぐ前を一艘の舟が過ぎ去っていく。その舟に乗った人物の異様な装束にマフムートはぎょっとする。上から下まで真っ白な衣装に、長い鳥の嘴の仮面をつけた異形の姿だ。

「……鳥?」

大きな嘴がやけに眼について、鳥の屍を思い起こさせる。熱狂的な色彩の渦の中にあって、そこだけが色も熱もごっそり抜け落ちたようだった。

「あれは、昔、伝染病が流行した時に、患者と接近しすぎないように医者が身に付けたものだそうです。他にも医者が死者の臭いに耐えられるように嘴に香草や香料を詰めたとか、いろいろ言われています」

アビリガの説明を聞いたキュロスが、呆れたように目を丸くした。

「縁起物じゃねえのに、祭りの仮面にするのか。酔狂だな」

「病を治す医者の象徴だから、病避けや厄除けの意味もあるのかも知れませんよ」

胡散臭そうに眉を顰めたキュロスにマフムートがそう感想を洩らす。

「それにしても、この都の人々の仮装好きには驚かされますね」

一部の者から『仮装(コスプレ)将軍』と揶揄される人物の言葉に、アビリガもキュロスも微妙な顔をした。笑いを堪える顔だ。
『仮装将軍』とそのお供も、周囲の期待を裏切らず、祭りの雰囲気に合わせてヴェネディックの衣装に身を包んでいた。マフムートは、深い海の青にも似た濃紺のチュニックに同じ色の帽子を被っている。青地に彼の金髪が良く映えている。深い紅の外套は鮮やかな青の生地で裏打ちされていて、唐草の刺繍が地紋のように施されていた。白い繊細なレースがのぞく袖は、うっかりするとどこかに引っかけて、簡単に引き裂いてしまいそうだ。
レースもこの都の特産品の一つで、細やかで洗練された意匠がバルトライン帝国のご婦人方に人気だという。

一方キュロスは、緑色の細い縦縞が入った黒のベストに、光の加減で一見黒にも見えるオリーブ色の外套に身を包んでいた。首にはいつものスカーフを巻いている。二人の衣装は、チェチリアの計らいでアビリガが用意したものだという。

運河には、至る所に舟を繋ぐための杭が立っており、その先端で海鳥が羽を休めている。一行を乗せたゴンドラは舟の大通りともいうべき大運河から小さな水路へと入った。次第に喧噪が遠ざかり、行き交う船の数も減ってきた。
船頭の持つ船竿が水をかき分け、雫を散らす。なぜか潮の香りが昨日よりも強い気がした。

「なんだか変な空気ですね」

舟の上にいるせいなのかしっとりとした空気が肌に触れる。マフムートの言葉に、アビリガは手を伸ばして水に触れた。

「せっかくのカーニバルですが、今夜は出歩かない方がよさそうです」

「どうしてです?」

「海水が冷たい。霧が出るでしょう」

「へえ?」

キュロスが興味深げに眉を上げた。ポイニキア出身の彼も海上の気象には詳しいので、思い当たることがあったようだ。

「確かに。あたたかくて湿った空気と冷たい海水、船の航行には悪い条件だな」

「海霧は広範囲に発生しますから、たいがいヴェネディック一面霧の中ですよ」

アビリガが頷く。

「視界が悪い中で歩いて、運河に落ちても見つけてもらえないってことか」

「危ないですから、慣れない人は夜歩きはやめた方がいいでしょうね」

アビリガがキュロスに向かって言った。夜歩き――というよりも夜の屋台巡りが好きなキュロスは、うるさそうに鼻を鳴らす。

「で、この馬鹿騒ぎはいつまで続くんだ?」

「今日が最終日です。今夜には出店も店じまいですよ」

「じゃあ、今の内に美味そうなモン買い貯めといた方がよさそうだな」

「気に入ったものがありましたか?」

「あのトマトと魚介が乗ってるピッツァてやつは美味いな」

キュロスは食べ物の話だと機嫌がよくなる。細い身体の何処にそんなに入るのかと思うくらいよく食べる。好き嫌いはほとんどないようで、各国の珍味についてもやたらと詳しい。見たことのない食べ物は、とりあえず味見してみるのが彼の主義らしい。

「ああ、私も結構好きです。あの生地は何でできているんです?」

マフムートもキュロスに同意した。キュロスとは違ってそれほど食通というわけではないが、ナイフやフォークを使わずに手で簡単に食べられるところが気に入っている。

「小麦ですよ。小麦に水と卵とオリーブオイルを混ぜてこねて発酵させるんです。花の都(フローレンス)の方にもありますが、この辺りでは魚貝のピッツァが名物です」

花の都のピッツァは半熟の卵がのっているものが有名で美味だという。それを聞いてキュロスが「美味そうだな」と言って身を乗り出す。それにしてもアビリガが作り方を知っていたのは意外だった。チェチリアの店で手伝いでもしていた時に覚えたのだろうか。

「そういえば、魚や貝は別ですが、小麦も野菜もこの都ではとれないでしょう? 名物なのに原料は輸入されたものばかりなんですね」

「このまちの成り立ちが商業都市国家ですから、小麦は花の都やサロス、それに周辺の農耕国から、野菜類も同じように周辺の農村から船で仕入れます」

「食糧自給率がきわめて低いといえますが、大丈夫ですか?」

マフムートの何気ない「大丈夫ですか」という一言に、アビリガは内心ヒヤリとする。ヴェネディックの抱える弱みを見事に指摘されたからだ。だからこそ、各国の情報を入手し、統括するシステムをいち早く構築し、世界情勢の把握に力を入れている。外交に重きを置くのは、国土が狭く、商業に頼るこの国を守るためでもある。

「だから私をご主人様(パドローネ)の従者にしていただいたんですよ」

アビリガは曖昧に微笑んだ。

「そう……でしたね」

そう、アビリガは、表向き追放されたことになっているが、実際は、ヴェネディック共和国会がトルキエ将国とのパイプ役としてマフムートのもとに送り込んだ人物だ。ヴェネディックは、自国にとって誼を通じておくことが益とされる相手を多くの国の中から見極めているのだろう。ひょっとしたらアビリガ以外にも他国とのパイプ役を務める人物がいるのかもしれない。

(試されているのは相変わらず……か)

マフムートは自嘲した。だが、望むところだとも言える。マフムートの策略によってバルトライン帝国と対立することになったヴェネディックだが、とりあえず今は、トルキエの敵にならないだけで、今後もずっとこちらの味方だとは言い切れない。

(利益があると思わせておくことができれば、敵にだけはまわらないということだから)

さすが商人の都だと、ある意味感心する。だから、それを忘れない限り信頼を置くことができるのは確かだ。
アビリガは、ヴェネディックの人間だ。国家の命でマフムートと行動を共にしているだけだ。それは充分に理解しているつもりだ。

だが、マフムートは時々忘れてしまいそうになる。アビリガが傍らにいることが自然になりすぎていて、彼が欠けた時のことを想像できなくなるくらいに。

トルキエの将軍ともなれば、動かせる部下も多くなる。にもかかわらず、相変わらずマフムートの供はキュロスとアビリガだけだった。もちろん、トルキエに戻れば動かせる兵はある。が、外事局の直属の部下となるとごく限られていた。更にアビリガとキュロスの二人は正確にはマフムートの部下ではない。

一応、キュロスはザガノス将軍がつくり上げた情報組織の耳役(クラック)で、アビリガに至っては、ヴェネディックとトルキエをつなぐパイプ役として結果的にマフムート個人の裁量で預かったヴェネディック人だ。ご主人様と呼ばれてはいるが、マフムートは当然便宜上のことだと知っている。

「橋の下を通りますから、頭を下げてください」

船頭が注意を促す。細い水路に架かる橋には橋桁のないアーチ型のものが多い。だからなのか、桁下から水面までの高さが低い場所もあった。気をつけないと、頭をぶつけてしまうこともあるのだ。

物思いにふけっていたマフムートは、うっかり反応するのが遅れた。隣に腰掛けたアビリガがさり気なくマフムートの肩に手を掛け姿勢を低くさせる。船頭も慣れた様子で姿勢を低くし、橋の下をくぐり抜けた。

抱き寄せられる恰好になってしまったマフムートは、アビリガの仮面に隠された横顔に視線を投げた。

(居心地が良すぎるせいか。……困ったな)

出会って一年も経たないのにずっと昔から傍にいたような、そんな気持ちになることがある。

(この前のあれはどういう意味だったんだろう……)

一昨日の出来事をふいに思い出した。目の前の唇が自分のそれに重なった時のことだ――。

「どうかしましたか?」

マフムートの視線に気付いたアビリガが首を傾げた。知らないうちにアビリガの唇をじっと見つめていた自分に気付き赤面した。マフムートは慌てて視線を逸らした。

「い、いえ、なんでも。……そういえば、お二人はお元気でしたか?」

「はい、おかげさまで。私も安心しました」

「それはよかった」

マフムートの言う『お二人』とは、アビリガの恩人でもあり親代わりでもあるブレガとチェチリアのことだ。建前上は国外追放になっているアビリガの身元が周囲に知られないように気をつけなくてはいけないため、会話の際は固有名詞を出すことを避けた。

「そんなことより、今日もまた会えないのかよ。一体、何日待たせるんだよ。面会を申し入れてきたのは向こうじゃねえか」

キュロスが不機嫌そうに船縁に肘をつく。キュロスが言うのは、この国の元首(ドージェ)のことだ。そもそもマフムートのヴェネディック入りしたことを聞きつけて、秘密裏に面会したいと申し入れてきたのは元首の方だ。ところが、約束の時間になっても元首ルチオは現れず、「大変申し訳ないが、所用のため、二、三日お待ちいただきたい」と使者を通じて告げられただけだった。
お詫びに滞在費用は全額ヴェネディック側が負担するという話だが、どうも何かおかしい。元首の動向を探るためにも、官邸の周辺や共和国会の議員から情報を得ようとあちこちへ出掛けていたが、これといった収穫はないまま三日が過ぎていた。
今日も元首官邸の偵察に行ってはみたが、祭りの喧噪のせいで早々に諦めたところだった。

「仕方ありません。このシーズンは公式行事が多いですから」

アビリガが申し訳なさそうに言った。

「お忙しい方ですし、祭りを楽しんでゆっくり待ちましょう。それに――」
と、マフムートは一旦言葉を句切ると、いくらか声をひそめて続けた。

「この機会にヴェネディックについて、いろいろ勉強させてもらいましょう」

マフムートは『勉強』と言ったが、それほど殊勝な心構えはない。どちらかといえば、『内情を偵察する』という意味だ。マフムートの不敵な笑みを見て、キュロスも機嫌を直した。そうこなくては、面白くないといった様子だ。

「では、今日はどこへ行きましょうか?」

そして、マフムートの言葉の真意を知っていても全く動じないアビリガが、行き先を尋ねる。

「そうですね、この国の特産品でもあるヴェネディックグラスの工房を一度覗いてみたいですね。例の一件では大活躍の一品でしたから」

「ていうか、主役は緩衝材でしたけどね。俺も賛成です。ポイニキアの水晶がどういうルートでこっちに来て、加工されているのか見たことないですし」

珍しくキュロスが身を乗り出す。ところが、アビリガは「キュロスさんにそこまで期待されているのに申し訳ないのですが――」と言って切り出した。

「観光客相手のヴェネディックグラスを売る店ならば、すぐに案内できるんですが、工房を見るには許可が必要なんですよ。というよりも外国人には、まず許可が出ません」

「なんでだ?」

「職人はすべて一つの島に集められています。その家族も流通に携わる者も一緒です。その島に工房を集中させることで、職人達が切磋琢磨し、技術を向上させ、名品をつくり出すことができるからです」

アビリガが淀みなく説明する。マフムートは、しばし考える素振りを見せてから、口を開いた。

「それだけではありませんよね。優れた技術が外国に流出するのを警戒しているからでしょう?」

いつもながらマフムートの鋭さには驚かされる。アビリガは肩をすくめて言った。

「――その通りです」

「それって、職人連中を一つの島に閉じこめてるってことかよ」

キュロスが不快そうに眉を顰めた一方、マフムートはこともなげに言った。

「ヴェネディックグラスは、この国の主要産業ですからね。技術は財産です。国が保護のために規制をするのはよくあることですし、当然の措置だと思います。そのための罰則や法律もちゃんとあるのでしょう?」

マフムートは、トルキエ宝飾に関してのブチャクと黄金の町(アルトゥン)の関係を思い浮かべた。輸出に関しても一年間に駱駝一千頭分と決めている。それは、トルキエ宝飾の価値を一定に保つためだ。
グラス職人の囲い込みが国策である以上、国民がその有意性を知って従っているならば、その処置が非人道的であるならばまだしも、外国人がとやかく口を挟む権利はない。

「美しさと品質を保つためには必要な措置ってことか。今は、原材料の供給元を帝国に押さえられちまっているけどな」

キュロスが苦々しく言った。ポイニキア産の水晶はヴェネディックグラスの製造には欠かせない。だが、バルトライン帝国との戦いに敗れたるポイニキアは、現在帝国領となっている。それでも、しばらくは取引があったが、例の一件で完全に取引が途絶えた。今は一体どこから水晶を手に入れているのか不明だ。商魂たくましく、世界各国の情報に精通しているヴェネディックのことだから、とうに新しい輸入先を見つけているのだろうか。

「工房が駄目となると、どうします? 俺はそろそろ腹が空いたんですがね、さっき食い物の話をしたら余計に」

「え、キュロスさん。さっき、屋台で何か食べていませんでした?」

マフムートが呆れた口調で尋ねた。

「さっきのは、前菜みたいなモンです。今度は、もうちょっと腹に溜まるものがいいな」

 ――あれが前菜? とマフムートもアビリガも首を捻る。ピッツァを三ピースに、他にもなにやらいろいろ買い込んできて、歩きながら食べていた気がする。

「では、ヴェネディックへ来たら一度は味わってもらいたい一品を食べにいきましょうか」

アビリガは苦笑して、船頭に行き先の変更を告げた。







リストランテ『海猫亭』の個室で、アビリガもようやく仮面を外してひと心地ついた。人前で仮面を外すことができないアビリガがこの店を選んだ理由は、個室があるということ以外にもう一つある。ヴェネディックの隠れた名物が食べられる店の一つだからだ。

注文した名物がテーブルの上に出された瞬間、キュロスが目を丸くした。

「なんだコレ!? 食えんのか?」

マフムートもフォークを持つ手が思わず止まった。

「一体…何でできているんですか……これは……」

皿の上には、真っ黒で細長い物が絡み合うように盛られている。一体、どんな生き物だろう。その上に小口切りにされた赤いトマトとハーブの葉がのっている。見慣れない者にとっては、黒に赤と緑のコントラストがいっそ毒々しい。

「見た目と色は悪いですが美味ですよ。騙されたと思って、まあ一口」

「その前に食材を教えろよ。まてよ……ひょっとして、これ、アレか?」

「アレ?」

なんのことだかさっぱり分からないマフムートは、皿の上を凝視したままだ。

「さすが、ポイニキア生まれのキュロス君。海の近くにお住まいの方なら、想像がつきますか」

「たぶん長いのはパスタだろ? いや、まさか、アレがソースになるなんて聞いたことがねぇぞ」

「え? これパスタなんですか」

マフムートは、しげしげと皿の上の物体を見つめた。確かに黒いということを除けば麺に見える。

「イカスミパスタです。ヴェネディックの名物ですよ」

「やっぱりそうか!」

「イカスミ?」

海産物に詳しくないマフムートが聞き慣れない単語に小首を傾げた。

「イカスミっていうのは、その名の如くイカの墨です。足が十本ある海の生き物ですよ。体内に墨袋を持っていて、敵に襲われると墨を吐いて逃げるんです。まさかコレが食えるとは思わなかったぜ」

魚介料理の食材としてイカの身の方は定番だが、通常は捨てる墨袋を料理に使うというのは初耳だった。
まだ躊躇いがちなマフムートとは対照的に、キュロスは、黒い物の正体が分かった途端、器用にフォークに巻き付けて食べ始めた。

「んん!? 見た目からはとても信じられねえが、美味い!」

「本当ですか!?」

マフムートも少しだけフォークの先に黒いパスタを巻き付けると、意を決して口の中に入れた。独特な風味とガーリックが旨味を引き立てている。これは思っていたよりも美味しいかもしれない。

「それにしても、これを最初に食おうと思った奴はすごいな」

キュロスの皿からは瞬く間に空になっていく。

「キュロスさん! 口、すごいことになってますよ!」

「へ?」

「真っ黒です!」

「まあ、墨食ってんだから当然でしょ。そういうアナタも唇真っ黒ですよ」

「え?」

アビリガがクスクスと笑う。ここに鏡はないからよく分からないが、キュロスの唇も黒いので、つまりは、同じ状態になっているということだろう。
マフムートは、手の甲で唇を擦ると、案の定、甲が黒く染まった。アビリガが笑いながら、マフムートの手を捉えると、手にした布巾で甲を拭ってやる。そのまま、まるで子どもにするように主人の唇を拭ってやった。

「美味しいんですが、食べた後が大変なのが、このパスタの欠点です」

「それは最初に言ってください!」

「先に言ったらつまらないでしょう」

「そういう問題ですか!?」

キュロスが、テーブルの端に頬杖を付いてフォークを銜えたままそんな二人のじゃれ合いを呆れ顔で眺める。

(すげえな、あれ。マフムート将軍も無自覚か?)

ここ最近、アビリガの、マフムートへの甘やかしっぷりはすごい。見ているこっちが恥ずかしくなってくる。本人達に自覚がないとしたら、二人ともかなりの重症だ。

(ま、いいか)

キュロスは、他の料理の皿も平らげるべく、二人を放って食事に専念することにした。





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