「マフムート元将軍を可愛がる本」 【SAMPLE】






目が覚めたマフムートが見上げた天井は知らないものだった。
ぼんやりと紗の垂れ幕やきらびやかな装飾を見つめ、小さく呟いた。

「甘い…香り……」

紗幕の向こうで揺らめくのは、香炉から立ち上る薄紫の煙だろうか。程なくして幾重にも紗のカーテンに覆われたそれが天蓋だと気づいた。
更に自分が柔らかな寝台の上にいることを知って、マフムートは驚いて身体を起こした。

「どこだここ……うっ…く」

途端にひどい目眩と頭痛に襲われた。頭がぐらぐらと揺れる。マフムートは耐えられなくて、そのまま寝台に倒れ込むように身を投げ出した。

(一体、どうなって……)

動作するたびにズキッと腹部が痛み、マフムートは小さく呻く。
痛みの原因を思い出して、小さく舌打ちした。

アビリガとキュロスと共にイェニチェリに化けて王宮を抜け出そうとして見つかったところまでは覚えている。バラバンの手で捕らえられ、屈強な奴隷の男二人に羽交い締めにされて、鳩尾に一撃をくらったのだ。

当て身を食らわせた相手は、あまり上手な体術の持ち主ではなかったのだろう。腹部はきっと青あざになっているに違いない。
手刀で首に一撃とか、顎に衝撃を当てて脳震盪を起こさせて自由を奪うとか、いろいろ気絶させるやり方はあるが、どれもかなりの技術を要するものだと改めて思う。
そう考えると、アビリガの体術の鮮やかさは群を抜いているように思えた。

(そうだ、アビリガさんとキュロスさんは……?)

ようやく記憶がはっきりしてきたマフムートは、連れの安否が気になった。
二人は無事だろうか。
特にキュロスは、捕らえられた後暴行を受けた様子だったので心配だ。
アビリガは、あの隙に身を隠して兵に紛れたはずだ。脱出の機会を窺いながらマフムートの居場所を探しているかもしれない。

(それにしても……ここは一体……)

マフムートは、ここが牢屋でもなく、手足を拘束されているわけでもないことに疑問を感じ周囲をもう一度見渡したが、眩暈はひどく、身体に力が入らない。
室内に立ちこめ、視界を曇らせる香が息苦しいほど甘い匂いで、マフムートは眉を顰めた。
麝香に混じって嗅いだことのない匂いがするから眩暈の原因はあの香かもしれない。

(ここにザガノス・パシャがいたら、まず間違いなく毒を盛られたと考えるべきだな……)

だが毒薬の将軍という名を持つ人物はここにはいない。
気を失っている間にバラバンに毒を盛られたのかも知れないが、まだ生きているので毒は致死量のものではないし、頭痛と眩暈以外に苦しいというほどの感覚はない。殺すつもりは今のところないらしい。拘束具の必要がないのは、体の自由を奪う香のせいかもしれない。

(くっ……こんなことをしている場合じゃないのに)

ままならない己の身体に唇を噛む。
なんとか身体を起こし、這ってでも出ていこうとした時、室内の空気が動いた。
誰かが入ってきたようだ。

「お目覚めか、マフムート軍人(ベイ)」

この声は――

「将王バラバン……!?」

紗幕を掻き分けて、漆黒の衣のバラバンが眼前に現れる。
バラバンはマフムートの手首を掴むと、立ち上がろうと努力していた身体を軽々と突き飛ばした。

「……っ」

「私の歓待にご不満のようだったのでね、貴公を特別に紅の宮殿(アル・サライ)流の遊戯(オユン)に招待したのだよ」

「……一体、なにを……」

身体を横たわらせたまま顔だけを上げ、息を呑むマフムートの頤をバラバンの手が掴む。
バラバンの瞳が冷たく剣呑な色を湛えている。怒りとも違う暗い熱を帯びた眼差しが、捕らえた獲物を傲然と見下ろしていた。マフムートは背筋を駆け上がった悪寒に堪え、負けじと睨み返した。

「その眼――揺るがぬ信念を持つ曇らぬ瞳。美しいその瞳と顔を歪ませてみたくなるのは私の性か」

バラバンは、背後から恭しく差し出された杯を手に取り、独り言のように言った。
将王の衣からふわりと漂う別の匂い。それを嗅いだ瞬間、マフムートの心臓が強く脈打ち、身体の奥に痺れたような感覚が起こった。
急激に熱がたまっていく。視界はぼやけ、バラバンにきつく頤を掴まれていなければ顔を上げていることすら難しくなった。

「……え……なん……」

突然の己の身体の変調に戸惑い、大きく喘いだ瞬間、唇を塞がれた。
黒衣の男のそれで。

「……んんっ!!」

驚きに一瞬目を見開いたが、黒い影に視界を閉ざされた。
ドロリとなにかが喉を通っていく。
何かを呑まされたと気付いた時には遅く、口の中に蜜のような甘さだけが残った。

相手の姿を見ることすら叶わなくなったマフムートは、くぐもった声を洩らす。力が全く入らず、意識すらはっきりと保てなくなってきていた。
手足の感覚が鈍くなっていくのに反比例して、身体の一部分が敏感に反応を示し始めている。

(なんだ……これは!?)

自分の身体の反応が信じられなくて、口づけから逃れようともがいたが、いつの間にか仰向けに押し倒され寝台に強く押しつけられていた。
手首を強く掴まれ、のし掛かるバラバンの身体が両脚を割って入ってくる。
いつの間にかバラバンの手がマフムートの襟を解き、衣服をはだけさせていた。

「や……っ」

ここまで来れば、ぼんやりとした頭でも相手の意図がはっきりと分かる。
焦ってもがけばもがくこと、バラバンは興が乗ったように酷薄な微笑を洩らす。
ただでさえ香と薬のせいで力が入らないのに、この体格差では逃れようがない。

「はぁっ……は……」

息ができないほど荒々しい口づけは、次第に執拗で官能を引き出すような深い口づけへと変わっていく。

「ん………ふ、やめ……」

触れて欲しくない場所に男が膝を押しつける。
自分の一部が確かに脈打ち始めている現実に愕然とし、動揺した。これなら肉体に直接与えられる拷問の方がましだ。
己の意志に反して勝手に反応する身体が厭わしい。苦しくて悔しくて、どうにもならなくて、涙が滲んでくる。

「ほう、マフムート軍人は最年少で将軍になったと聞いていたから、こちらの方も慣れたものかと思っていたが……存外、可愛らしい反応をする」

笑い声混じりに言われ、羞恥にカッと頬が熱くなる。
目尻に滲んだ滴を指先で払われたことも口惜しい。
長い前髪を梳くように掻き上げられ、頬から耳の裏、首筋を撫でるようにバラバンの冷たい指が辿る。
たったそれだけのことにもビクッと身体を震わせてしまったマフムートは屈辱に頬を朱に染めた。

「細い手足、細い首、細い腰……このまま力を入れれば、容易く折ることができるほどだ。閨では、まるで乙女のような初(うぶ)な仕草……これが砦の町(ヒサール)を救った勇者だとはな」

「殺すならさっさと……殺してください!」

「殺す? そんなもったいないことをできるものか。その容姿も、能力も私を充分に満足させるものだ。それなのにトルキエは貴公を降格した。あまりな仕打ちだと思わないか。もう一度問おう。私の親兵に入らないか?」

「お断りします!」

「そうか、それは残念だ。君は駆け引きというものを知らぬようだ。――あれを」

どこに控えていたのか、バラバンの言葉に返事をした男が一礼して部屋を出ていく。
だが、すぐに数人の気配と共に戻ってきた。
マフムートが霞む視界で紗幕の向こうに確認できたのは、縛られた誰かが二人の男に剣を突きつけられていることだけだ。何事が始まるのかと思っていると、聞き慣れた声がした。

「マフムート軍人!」

「……キュロス……さん?」

「テメエ! 何してやがるっ!? マフムート軍人を離せよっ!」

キュロスがそう叫んだ途端「無礼者!」「黙れ!」などの激しい叱咤の声と殴打の音が聞こえ、呻き声がした。

「や…めてくださいっ。将王バラバン! 彼を離すように言ってください!」

「だから遊戯と言っただろう? あの者の命が惜しければ……聡明な元将軍の君になら分かるだろう?」

マフムートの顔が歪む。キュロスの喉に刃先が僅かに食い込み、肌を裂く。

「……マフムート軍人っ! そんな奴の言うことを聞いたりしたらオレは許しませんよっ!」

血の滲むような叫びの後、殴打の音に続いてキュロスの呻き声が上がる。

「キュロスさんっ!」

マフムートの悲痛な声にも男達は身じろぎすらしない。無抵抗のキュロスを痛めつけることに罪悪感などなく、男達はただ主の命令を忠実に実行しているに過ぎないからだ。

「将王バラバン、なぜこんなことをっ…!」

「欲しい物はどんな手を使ってでも手に入れる。王とはそういう生き物だ。きれい事ばかり並べ立てても国は成り立たぬのは自明の理。それが分からぬのなら――貴公はもう少し汚れた方がいい。きっと見えることがあるはずだ」

マフムートが瞠目する。抗っていた身体から力が抜けた。

「ほう、自覚があるようだな? 清も濁も合わせて持ち得る者だけが、国を強くすることができる。すべてを飲み込んでも崩れないだけの力を持つ強き王が強き国をつくることができるのだ」

マフムートは震える唇を噛む。
己に足りない部分を見透かされている、そんな気がしたのだ。
バラバンの君主論は間違っている、とは言えなかった。納得はできないが理解はできる。それだけに何も反論できない今の自分が悔しかった。

「ですが、国とは国民がいて成り立つもの。強き王とは、弱き民のために存在するのでなければ、そんな国はいつか破綻します!」

「強き王がいてこその国家だ。弱者が強者に従うのは当然のこと」

「こんなことをする人間が本当に強い王だとでも?」

「理想を語るのは容易い。だが、だから貴公は、今こうなっているのだろう?」

マフムートは唇を噛んだ。

「……好きにするといい。こんなことをしても人の心は……手に入れることはできません」

マフムートはやっとそれだけを口にした。
皮肉げに口角を上げたバラバンは、きっと人の心というものを理解することは決してないだろう。将弟バヤジットや民の心も――。

マフムートはきつく目を閉じた。
あとはどれだけ声を上げずに済むか、己の理性に賭けるしかない。

「ふっ……貴公も楽しめばいい」

酷薄な笑みを浮かべ、バラバンが耳元で睦言のように囁く。

黒い影がゆっくりとマフムートに覆い重なった。







※続きは「マフムート元将軍を可愛がる本」にて。

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