人魚姫




アレハンドロには、子供の頃から言い聞かされていたことがあった。父も、そのまた父親も同じように聞かされてきたという。

「コーナー家の男子は、いつか『再生』という名の運命に出会う」

運命が一体どんな姿をしているのか、それは人なのか、何かの装置なのか、出会うのがいつなのかすら分からなかった。ただ、コーナー家は中世の秘密結社めいた組織に加盟しており、その組織の中で「監視者」という役割を代々担ってきた。それは、子から孫へと伝えられ、今は自分がその役目にあたっている。
自身が望んで得た役目ではない。だが、連綿と続く、その義務に疑問を持った当主はいなかったのだろうか。過去の人間の言葉に縛られて生きるなど御免だった。

予言めいたその言葉を心から信じてはいなかったが、そんなことが本当に起きたら、この決まり切った人生も少しは面白くなるだろうに、とは思っていた。

だが、自分の代でその『運命』とやらに出会うことになるとは、夢にも思っていなかった。







夕闇が近づく海辺の町に雨が降っていた。紗のカーテンのような霧雨のせいで、港は印象派の絵画のような趣になっている。普段は賑やかな大通りも、雨のせいか人影もまばらだ。
大通りの街灯にオレンジ色の灯がともり、人々が家路への足を速める頃、一台の黒塗りの車が少し前に廃業したホテルの前で停まった。

そのホテルの軒先には小さな先客がいた。階段に腰かけた小柄な身体には、雨の滴が落ちている。
その身体に、そっと傘が差し掛けられた。
膝を抱えた少年は、身体を打つ冷たい滴が途絶えたことに気付き目を開けた。
目の前には上質なスーツの生地と、ぴかぴかに磨かれた黒い革靴。その靴が水たまりを踏み、雨の滴をはじくと、水たまりの映った少年の顔が波紋に揺れた。少年は、顔を上げた。

紳士が興味を引かれ、わざわざ車を止めさせたのは、少年の服装が浮浪児のそれとは違っていたからだったのかも知れない。
紳士は、少年に名を問うた。

「君の名前は?」

少年は、しばし躊躇った後に口を開いた。

「リボンズ。……リボンズ・アルマーク。あなたは?」

名を聞いた紳士から息を呑むような気配が伝わってきて、少年はその人間が待ち人だと知った。

「私は……アレハンドロ・コーナーだ」

「では、あなたは変革をもたらすもの? それとも破壊?」

少年の瞳が一瞬金色に光ったような気がした。
それにしても破壊とは穏やかでない。アレハンドロは、眉を顰めて少年の顔を見た。思えば、不思議な会話をしている。お互い初対面なのに、まるで出会うことが運命づけられていたような錯覚さえ覚えた。

「君が『再生』か?」

「再生? 確かに僕の名前はそういう意味かも知れないけど……?」

首を傾げた姿は、何も知らない無垢な少年そのものだ。先ほど感じた違和感は気のせいだったのだろうか。
アレハンドロは、座り込んだままの少年に向かって手を伸ばした。

「おいで。こんなところにいては風邪を引いてしまう」
おずおずとその手を取った少年は、ゆっくりと立ち上がる。
アレハンドロの胸ほどにしかない身長、少女のような細い身体。淡い黄緑色の髪はしっとりと濡れて、滴を落とす。
寒さにぶるりと震えた身体に、ふいにあたたかな感触がした。アレハンドロがスーツの上着を脱いで、少年の肩にかけたのだ。

「あの…濡れてしまいますよ?」

「子供が気を遣うものではないよ。それに」

アレハンドロは、手を伸ばすとリボンズの濡れた前髪を掻き上げるようにして額に手の平を当てた。

「体温が高いね、少し熱があるようだ。君に今必要なのは、医師の適切な処置と、清潔であたたかなベッドだと思うのだが?」

アレハンドロは、クスリと笑みを洩らして傘をたたむと、少年の身体を抱き上げた。

「自分で歩けます。下ろしてください」

ほんの少し頬を赤らめたのは、羞恥のせいか、それとも熱のせいだろうか。

「大人しくしておいで。何も取って喰おうというわけではない」

「でも……そんなことをしてもらう理由がありません。それとも、あなたは僕みたいな年頃の男の子が趣味なのですか?」

アレハンドロは目を丸くして、苦笑した。

「そう思われてしまうのは心外だな」

抱き上げられて、車まで運ばれていくリボンズは、腕の中で男の顔を見上げた。

「いい年をした大人が、君のような子供に運命を感じたと言ったら、君は笑うかな?」

「いいえ。僕はそんなことはしませんが、あなたのお付きの人が目を丸くしていますよ」

「彼らは、分別のある大人だからね。私が白と言えば、黒も白く見えるんだよ」

なんて傲岸不遜な物言いだろう。冗談めかして言ってはいるが、おそらくアレハンドロの言葉に偽りはない。事実をねじ曲げるだけの権力と、それを行使するのを躊躇わない意志があるのだろう。

「……人間とはなんて……」

―――欲深く、愚かで、可哀想なのだろう。

「ん? どうかしたかい?」

リボンズの小さな呟きは、アレハンドロの耳には届かなかったようだ。

「いえ、ご厄介になります」

「ああ、君を歓迎するよ」

こうして、リボンズは、アレハンドロの手を取ったのだ。








「……朝」

いつの間に眠ってしまったのだろう。
既に日は昇り、遮光カーテンの隙間から明るい日差しが室内に差し込んでいる。
アレハンドロと出会った時のことを思い出すなんて、一体どういうことだろう。

(夢……ではないな。まったく……。お節介なのは、リジェネか)

自分にとって、睡眠は人間の眠りとは違う。人間とは違って夢をみることはない。
睡眠は、肉体と脳を休めるための時間という点では、人間のそれと同じだが、もう一つ重要な役割がある。眠っている間にその日一日の経験をヴェーダに記録するのだ。こうして、ヴェーダはその場を動くことなく経験値を上げていく。言うなればヴェーダの外部端末のようなものだ。

いつも通りの記録保存中にアレハンドロとの出会いを回想したのは、自分の意志ではなく、リボンズと同じく、外部端末の一つであるリジェネ・レジェッタが介入したせいだろう。

(まったく、お節介だね)

(そう? 随分とあの人間のことが気になっているようだからさ、君とあの人間がどういう出会い方をしたのか気になってね。君に内緒で見るのは気が引けたから、君と一緒に見ようと思って)

(とんだ屁理屈だよ)

(それにしても君の演技は最高だったよ。偶然の出会いを装って、あの男に「運命を感じた」とまで言わせたんだから。あの男の先祖に予言まがいの言葉を残したのは君だっていうのにね)

脳裏にクスクスと楽しげな笑い声がこだまする。

(リジェネ、趣味が悪いよ)

リボンズが穏やかに窘めても、悪びれる気配はなく、リジェネは面白そうに言う。

(ねえ、あのユニオンの軍人をどうするの?)

(もう手は打ったよ)

(ふうん。王子様を別のお姫様にとられちゃったら、泡になってしまうんだよ?)

(なんだい、それ?)

『王子は姫さまにむかって、これからは、いつもそばにいてほしい、と声をかけました。一日たつごとに、王子は姫さまを愛するようになりました。それも小さな幼な子を愛するように。ですから王子は、人魚の姫さまをお妃にしようとは考えてもみませんでした。でも、姫さまのほうは、どうしても王子のお妃にならなければならぬ理由がありました。つまり、そうでもないと、死なない魂を手にいれられなかったからです。王子がほかの娘をお妃にしたら最後、その朝に姫さまは、海の泡となって吹きとんでしまうのです。』

リジェネは芝居がかったように歌う。実際には、歌っているのではなく、共有するデータを読みとっただけだが、その内容にリボンズは、軽く眉を寄せた。
つい最近、アレハンドロも同じようなお伽噺のことを言っていたからだ。

(君の喩えは、時々よくわからないよ)

(計画に支障が出るかも知れないって話さ)

リジェネが意味ありげな言葉に対し、リボンズは薄い笑みを浮かべた。

(人間ごときに僕たちが躓くって言うのかい? それこそナンセンスだね)

強気なリボンズの発言にリジェネは口を閉ざした。
ユニオンの軍人に心惹かれるアレハンドロが面白くないらしいリボンズの態度は、まるで、嫉妬にも似たその感情を巧みに計画遂行への使命で隠しているように思えた。

イノベイターは、人間の矛盾が生み出した存在だ。平和を望むくせに戦争を止められない困った生き物。
それが人間だ。
その人間から、つくり出された自分達がどうして、矛盾していないと言えるだろう。

人間的になることを唾棄するくせに、人間的な感情に左右されるイノベイター。


―――だけど、リボンズ。僕たちはその人間達のために人間達が生み出した存在なんだよ?

 
それは、決してリボンズには届かない言葉だった。