薇+











「レイ?」

姿が見えない彼を捜して、屋敷のあちこちを歩き回る。

「なんて……広いんだ」

一体いくつ部屋があるのか、想像もつかない上、誰かに聞こうにもメイドの一人も通らない。

「弱ったな……」

頭を掻いて途方に暮れたアデスは、一度外に出てみることにした。
屋敷の中で自分のいる位置ですら怪しい。仕方なく外を一周ぐるっとまわってこの広大な屋敷の概要を掴もうと思ったのだ。


ロンドンにある別宅の威容にも圧倒されたが、侯爵の領地にある本宅は更にすごかった。
医者として数々の貴族の屋敷を訪れてきたが、ある意味ここまで来訪者に不便を強いる屋敷は初めてだ。

産業革命期のイギリス。
主要都市は、かつてないほどの繁栄と引き替えに環境汚染のリスクを背負った。蒸気機関の燃料となる石炭の煤や様々な化学物質が大気中に満ちた大都市を離れ、もともと身体の弱い侯爵家の子息が療養のために領地に引きこもるのは無理からぬことだった。

侯爵家の子息は、人目を避けるようにして、父親である侯爵の本邸で静養の日々を送っていた。
そのレイの治療のためにと請われたアデスが本邸に到着してから2日目のことだった。
午後の診察の時間にレイの部屋を訪れたアデスは、少年の不在に首を傾げたのだった。




アデスが歩くたびに手入れされた芝がさくさくと音を立てる。
屋敷の西翼あたりから裏手へ回ろうとした時だった。

突然視界が開け、目の前に現れた光景にアデスは立ち尽くす。

そこに広がっているのは、静かな農村の屋敷に不似合いなくらいの庭園だった。
屋敷の部分が少し高台にあるおかげで、上から見下ろすかたちとなり、その庭園の特異性がわかる。緑の垣根がまるで迷路のように、続いているのだ。
垣根に近づいてみると、それが蔓薔薇だとわかる。更に、この季節だというのに花も咲いていなければ、蕾もない。ただ、緑色の葉が生い茂っているだけだ。
蕾がつかない理由として樹勢が悪いとも考えられたが、それにしては葉は青々としている。
自分が知らないだけで開花時期が違う特別な種類の蔓薔薇なのかもしれないと、アデスはなんとなくそう思った。植物のことは専門外なので詳しいことは知らない。
ただ、迷路のちょうど中心にあたる一角が真っ赤に染まっているのを見るまでは、素直にそう思えた。
その赤は周囲が緑一色の分、とても鮮烈な印象を与えていた。どうしてかわからないが、背筋に悪寒とも快感ともつかない震えが走った。

美しい。

ただ、ひとことそう思えるほどに。
だから、その震えを、アデスは自身が光景の美しさに感動したのだと思いこんだ。

「庭師の腕か……さすがは侯爵家というべきか」

鮮烈な赤に圧倒されつつ、そう洩らしたアデスは、早咲きと遅咲きという種類の違う薔薇を巧みに組み合わせた造形に感心する。
そして、当初の目的も忘れ、緑の迷路に踏み込んだ。

何かに引き寄せられたように。



上から見た時は迷路だと思っていたが、入ってみると何の迷いもなく進むことができた。
やはり造形の美しさを見せることが目的であって、迷路としての機能を重視しているわけではないらしい。命を狙う侵入者を阻むための古代の迷路とは違い、現代の迷路はただ単なる芸術としての価値しかない。
そのことにどこか安堵して、迷路をゆっくりと進む。
高揚した自分の心に、子どもの頃の冒険心がよみがえる。
赤く染まるあの一角を目指して、ある種の期待を胸に抱き、いつの間にか歩調が早まった。

自分の背丈よりも高い生け垣の間を縫うようにして進む。
まだ陽は高いはずだったが、生い茂る緑が頭上まで達し、日の光を遮っていた。
薄暗い茂みの中に分け入ったような感覚に急に胸騒ぎを覚えた。

もうどのくらい歩いただろうか。
足を踏み入れてからかなり時間が経過しているような気がする。いくら広いとはいえ、そろそろ目的の赤い花のところへ辿り着いてもいいはずだった。
ふと気付けば、鳥のさえずり一つ聞こえない。陽もいつのまにか翳っている。

「迷ったか……?」

曲がりくねってはいたが、分岐などない1本道をひたすら歩いたのだ。そろそろどこかに出ても良さそうなのに、一向に視界が切れる気配はない。
立ち止まってもと来た方を振り返る。
そこにあるのはただ緑の壁。
高揚感はいつの間にか寂寞としたものに変わる。

赤い花の一角に行くには入り口が違うかも知れない……そう思い、戻ろうとした時だった。

「……この香り……」

一瞬だけ感じた香りは確かに薔薇だ。花が近くに咲いている証拠だった。
では、間違っていなかったのだと胸を撫で下ろし、再び前へと歩を進めた。
歩くほどに強くなる香り。
それに導かれるようにアデスはただ迷路を進む。
これだけの芳香を放つ花があるならば当然いてしかるべき虻や蜂などの昆虫の姿すらない。不思議なほどの静寂と鳥や羽虫などの生き物の気配がまったく感じられないことに、アデスは気づきもしなかった。
いつしか歩調は早くなり、次第に呼吸が乱れる。
そして、急にとぎれた垣根の角を曲がり、眼前に現れた光景に息を呑んだ。





赤い。


一面の赤。


むせかえるような甘い香り。





赤い垣根に周囲を囲まれるようにして白い大理石でできたオリエント風の東屋があった。
中のベンチには探していた少年が横たわっていた。

「レイ!?」

慌てて駆け寄り、間近に彼の姿を見てぎくりとした。
白い支柱と同じ石でできたベンチの上に散る赤い花びら。まるで、石の上に横たわった少年が流した血のようだった。
嫌な予感に肌が泡立つ。不安を払うようにレイの小さな体を揺さぶると、レイがわずかに身じろぎした。眠っているだけのようだ。
そのことにようやく安堵した時だった。

「お前が医者か?」

突然、背後から掛けられた言葉に驚き、振り向いたアデスは息を呑んだ。
そこにはこの世のものとも思えぬ美貌の青年がいた。

いくらレイに気を取られていても、こんな近距離に他人がいれば気付かないはずがない。

(そうだ。こんな青年は確かにいなかったはずだ!)

忽然と姿を現した人物は、透けるような白い肌と、豪奢な金髪。そして、澄み切った空のように青い瞳をもっていた。
美しい造形にただ一つ、違和感を生じさせていたのは、艶やかな唇。

まるで、血を塗ったような赤い唇だった。

ぞくりと背筋を駆け上がったのは、悪寒か、それとも快感か。
我知らず後退りしたアデスを興味なさげに一瞥した青年は、自分の問いかけに答えることすらできない男に侮蔑の視線を投げた。

「口が利けないのか? それともおびえているのか?」

傲然と言い放つその姿は、命令し慣れた人物のそれだった。
アデスは、居丈高な物言いと、「おびえている」と指摘されたことにむっとした。
侯爵家ゆかりの人物かも知れないが、それにしても客人に対する礼儀がない。この時代、身分制度は人と人のつきあい方に厳然たる格差をもたらしていたが、貴族でなくても知識階級と呼ばれる者はある程度の敬意をもたれるものだった。
侯爵自身ですら、息子の診察を頼んだアデスに対して、常に敬意を払った対応をしている。もっともそれは、侯爵自身の人柄によるものでもあったが……。
まして、今目の前にいる相手は見るからに年下で、身元も分かっていない青年だ。
支配階級特有の言動をする者に対して、身分が違うといっても、そこまで言われて黙っていられるアデスではなかった。

「確かに私は医者だが、そういうあなたは?」

憮然とした態度で答えたアデスに、今度は興味深そうな表情をした。

「私に名乗れと言うか。………おもしろい男だ」

赤い赤い唇が笑みを掃く。

「お前はよほどの愚か者か、でなければ勇者だな」

「?」

意味はよく分からなかったが、からかわれていることはわかった。

「礼には礼を尽くし、誠意には誠意で応える。無礼には慇懃無礼で返せというのが、わが家の家訓なので」

「なるほど。世渡りが巧いとは言えない一族だな」

楽しげに口元を緩める青年からは、先ほどまでの凍てついた雰囲気が感じられなくなっていた。彼を取り巻く空気が少し和らいだとでも言うように。



夕闇が迫ってきていた。



「会ったのが昼の私でよかったな。お前は運がいい……」

青年は、空を仰ぎ見るとそう呟いた。
その呟きに怪訝になったアデスもまた青年の視線の先を見たが、鬱蒼と茂る垣のむこうにうっすらとオレンジ色に染まる空が見えただけだった。

「……どういう…」
―――ことか? 

と、聞こうとして青年の姿に視線を戻したアデスの言葉が途切れた。
青年は忽然と消えていた。

「……一体………どこへ…!?」

息を呑んだアデスの目の前には、眠るレイの姿しかなく、アデスは背筋を伝い落ちる冷たい感触にぶるりと震えた。


はらり。


ふと、空から舞い落ちるものに気付いて、思わず手を伸ばした。
掬い上げるようにして捕まえたそれは、ひとひらの真っ赤な花びらだった。






血のように
く。




彼の
のように鮮やかな―――。













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