□ □  あの人  □ □  


Side*Rey













『あの人』

という言葉は、俺とギルの間ではただ一人のことを指す。

お互いにあの人の名前を口にすることはなかったけれど、
いつでも心の中にはあの人の姿と名があった。

まるで大切な宝物みたいにあの人の名前を胸に秘めていた。











「秘密だよ」と人差し指を唇に当ててギルが囁く。

「どうして?」

「とても大事な名前だから」

首を傾げるぼくにギルはやさしく微笑む。

「あの人は、自分の名前を忘れてしまうかもしれない。
だから私たちが覚えておいてあげるんだ」

「忘れてしまうの?自分の名前を?」

こくりと頷くギルの顔がなんだか切なくて。

「悲しいね……」

胸の辺りがザラザラしている感じだ。なんだか不安なんだ。
子供心に悲しかったのは、名前を忘れてしまったら、
誰かが自分のことを呼んでいても気が付かないからだ。
それはとても辛いことなんだと思う。

「ギルは、ぼくの名前を覚えていてくれますか?」

「ああ、もちろんだ。君が忘れないように何度でも呼ぶよ。レイ」

ギルの手がぼくの頭を撫でる。

「…よかった」

ようやく安心して笑うことができた。













「あの人」は英雄だった。


強くて、きれいで、そして懐かしい。

遠くから姿を眺めることしかできなかったけれど、いつでも眩しい存在だった。

あの暗くて狭い部屋から俺を救い出してくれた人。
頭を撫でる彼の手から伝わるぬくもり。
それがとても嬉しかった。


自分と同じ匂いのする人。


生きているということの意味。

今、ここで生きていること。あの人と出会えたこと。
それがなぜか誇らしかった。

だけど、心が苦しい。
あの人がきれいで、強くて、眩しいほど、その思いが強くなる。
光が強ければ強いほど、影は濃くなるように。
英雄だと褒め称えられるたびに、あの人の闇は深くなる気がした。

誰も本当の名前であの人を呼ぶことはない。
それを悲しいことだと俺は思っていたけれど、でも違った。
違うのだ…。

俺は知っていたはずなんだ。
あの人の優しい眼差しに潜む怒りと悲しみを。
あの人が何よりも忌み嫌っているのが、自身の名前だということに。
忘れたくても忘れることのできない柵なのだということに。
怒りが―――あの人の生きる糧になっていることを。


そして、抗うということ。


生きること―――それは、抗うこと。
抗い続けること。





だから、あの人は、強くて、きれいで、眩しいんだ。



闇さえも、あの人の一部なのだから。













End 2005.0529