□ □ あの人 □ □
Side*Rey
『あの人』
という言葉は、俺とギルの間ではただ一人のことを指す。
お互いにあの人の名前を口にすることはなかったけれど、
いつでも心の中にはあの人の姿と名があった。
まるで大切な宝物みたいにあの人の名前を胸に秘めていた。
◇
「秘密だよ」と人差し指を唇に当ててギルが囁く。
「どうして?」
「とても大事な名前だから」
首を傾げるぼくにギルはやさしく微笑む。
「あの人は、自分の名前を忘れてしまうかもしれない。
だから私たちが覚えておいてあげるんだ」
「忘れてしまうの?自分の名前を?」
こくりと頷くギルの顔がなんだか切なくて。
「悲しいね……」
胸の辺りがザラザラしている感じだ。なんだか不安なんだ。
子供心に悲しかったのは、名前を忘れてしまったら、
誰かが自分のことを呼んでいても気が付かないからだ。
それはとても辛いことなんだと思う。
「ギルは、ぼくの名前を覚えていてくれますか?」
「ああ、もちろんだ。君が忘れないように何度でも呼ぶよ。レイ」
ギルの手がぼくの頭を撫でる。
「…よかった」
ようやく安心して笑うことができた。
◇
「あの人」は英雄だった。
強くて、きれいで、そして懐かしい。
遠くから姿を眺めることしかできなかったけれど、いつでも眩しい存在だった。
あの暗くて狭い部屋から俺を救い出してくれた人。
頭を撫でる彼の手から伝わるぬくもり。
それがとても嬉しかった。
自分と同じ匂いのする人。
生きているということの意味。
今、ここで生きていること。あの人と出会えたこと。
それがなぜか誇らしかった。
だけど、心が苦しい。
あの人がきれいで、強くて、眩しいほど、その思いが強くなる。
光が強ければ強いほど、影は濃くなるように。
英雄だと褒め称えられるたびに、あの人の闇は深くなる気がした。
誰も本当の名前であの人を呼ぶことはない。
それを悲しいことだと俺は思っていたけれど、でも違った。
違うのだ…。
俺は知っていたはずなんだ。
あの人の優しい眼差しに潜む怒りと悲しみを。
あの人が何よりも忌み嫌っているのが、自身の名前だということに。
忘れたくても忘れることのできない柵なのだということに。
怒りが―――あの人の生きる糧になっていることを。
そして、抗うということ。
生きること―――それは、抗うこと。
抗い続けること。
だから、あの人は、強くて、きれいで、眩しいんだ。
闇さえも、あの人の一部なのだから。
End 2005.0529