あでくる。18.5予告版 「芽吹き」
※もしもBOXシリーズの予告みたいな感じでお楽しみください。2012冬コミ無料配布本より



舗装されていない山道を一台の車が峠に向かい走っていた。
四月になっても高原にはところどころ深い残雪がある。雪が溶けた地面には、草の芽があちこちに見え、また、広葉樹の森では芽吹きが始まっていた。
ほんの二週間前までは、雪に閉ざされた世界だったことを思えば、季節の移ろいを顕著に感じ取れる光景だ。

山道を急ぐアデスは、フロントガラス越しの風景に、まぶしそうに目を細めた。
下界はすっかり花盛りの季節だが、この高原の春はもう少し先のようだ。それでも、確実に春の足音が近づいてきている。それは、ほとんどの人にそうであるように、アデスにとっても希望や期待に満ちた季節の到来を告げるものでもあった。

『彼』と最後に会ったのは秋の終わり、例年より早い初雪が降った日だった。
健常者よりも体温の低い彼の手を握ってあたためた日から約五ヶ月が経っていた。
こんなに長い間離れているのは大戦直後の混乱でお互い生死不明の状況が続いた時以来かもしれない。
フラガ家の影の当主としてアデスと再会を果たした彼――ラウ・ラ・フラガは、現在もその地位にいるはずだが、表舞台に立つことは決してなかった。フラガ財団を実質取り仕切っているのは、現総帥のクロード・ラ・トゥールで、ラウは、表向きクロードの息子・アナトールと名乗っている。

今、ラウはクロードの所有する山荘で静養しているはずだ。
普通は、あたたかな地中海沿岸の別荘で静養した方がいい。もちろん、クロード自身も、フラガ財団も転地療養に最適な気候の良い国々に別荘や別宅をいくつも持っている。特に今回のような大きな手術の後は、病み上がりの肉体に雪山の寒さは堪えるはずなのに、ラウは周囲の勧めを全て断った。
なぜ、彼が過酷な冬の高原で静養する必要があるのかといえば、人目を避けるためという一言に尽きる。




アデスは、山荘の前で車を降りた。財団総帥の持ち物にしてはこぢんまりとしている。
屋根から落ちた雪が低い壁のようになって、建物の周囲を囲んでいた。ここ数日急に暖かくなったらしいので、その壁もところどころ溶けてなくなっているようだ。

玄関の呼び鈴を鳴らしたが、誰も出てくる気配がない。煙突からうっすら煙が見えたので、無人ということはないとは思いつつ、二度、三度と続けて押した。

(執事もメイドもいないのか?)

取り次ぎの者が出てくる気配がないので、アデスは首を傾げた。
そっとドアノブに手を掛けると、驚いたことに開いてしまった。ちょっと目を見開いて、おそるおそる扉を開け中へと一歩踏み出す。

「どなたかいらっしゃいませんか?」

大きな声で叫んでみたが、エントランスホールは静まりかえっている。
目の前には十数人が会合できるくらいのホールがあり、ソファとテーブルが置かれていた。正面に暖炉、その横には二階へと続く階段があった。

アデスは、モスグリーンのシックな絨毯が敷かれたホールを横切り、暖炉の火を確認した。
薪は小さくなっていたが、まだ火は残っている。マントルピースの上には、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップが置かれており、ソファの上には頁の途中で伏せた本があった。たった今まで誰かがいたような気配さえ残っている。
アデスはもう一度声を張り上げた。
だが、返事はない。

(ここで場所は合っているはずだが……)

アデスは、コートのポケットから携帯端末を取り出しメールを確認する。いつもと同じ、暗号メールだ。複雑で一見意味のないように思える記号の羅列の中に、緯度と経度が示されている。ラウから「会いたい」というメッセージだ。
暗号の解き方が間違っていたのかと、再度チェックしたが問題なさそうだ。

(まさか……一人で倒れているんじゃ――)

不意に不安が押し寄せ、アデスは山荘の中を走って部屋の扉を一つずつ開けていく。ボディガード時代の経験フル活用し、各部屋の異状がないか手際よくチェックしていった。念のため、護身用の銃を手に持ったまま動いた。
部屋数は十に満たない小さな建物だったので内部の検索はすぐに終了したが、目当ての人はおろか管理人の姿すらない。

再びホールへと戻ってきたアデスは、暖炉の前のソファに歩み寄った。
何気なく伏せた本を手に取る。その時、本の間から小さな紙片が落ちた。

拾い上げようと身をかがめた瞬間、突然背後に感じた殺気に飛び退く。
相手の顔を見極めようとしたが、背後を取られ、背中に銃を突きつけられた。ここまで接近されるまで相手の気配に気づかなかったのは、完全にアデスの落ち度だ。
――万事休す。

アデスがゆっくりと両手を挙げ、ホールドアップの姿勢をとると、急に殺気が消えた。
その代わりクスリと忍び笑いが聞こえてきた。

「――隊長……」

勘弁してください、とばかりにアデスが大きなため息をついて、肩の力を抜いた。
アデスが振り向くと、そこには悪戯が成功して楽しそうに笑う最愛の人がいた。
緩くうねる金色の髪、雪解け水に空の青さが映ったようなアイスブルー。五ヶ月前と何ら変わらない彼の姿があった。

「降参するのが早すぎるのではないか、アデス?」

久し振りに見る彼の笑顔だった。長い間冬の寒さを堪え忍び、ほころぶ花のつぼみのような笑顔だ。待ち焦がれていた春――そのものを体現したような彼の元気そうな姿に、アデスの胸にこみ上げてくるものがあった。

「……っ」

身体が自然と動いた。両手で彼の細い身体を抱き込み、その存在感を確かめるように抱きしめた。
髪に顔を埋め、柔らかなその感触を思い出した。
変わっていない――何も。
嬉しさと感謝で胸がいっぱいになる。

「なんだ、アデス。子どもみたいに」

しがみついたまま離れようとしないアデスにラウが苦笑する。そっと背中を抱き返して、あやすようにポンポンと背中を叩く。

「よかった……貴方にまた会えて――」

「すまない。悪ふざけが過ぎたようだ。そんなに不安にさせたか?」

優しく語りかけるラウに、アデスが声を詰まらせた。

「ええ。貴方に会うまでは心配でなりませんでした――いえ、本当は、会うのが怖かった」

「そうか…」

一番会いたい人に会うのが怖い。
抗いがたい現実から目を逸らすことなく、再びラウに正面から向き合えるかどうか、不安だったからだ。

抗いがたい現実――彼の命の期限と。






アデスは、ようやく落ち着くとラウから身体を離した。

「一人……なのですか?」

キョロキョロと辺りを見回すが、他に人の気配がない。そういえば取り次ぎの者もいなかった。

「ん? ああ」

「執事かメイドを連れてきていないんですか?」

「必要ないだろう?」

さも当たり前のようにラウが言うので、アデスは唖然とした。

「食事や身の回りのことはどうなさっているのです?」

「週に一度、麓の住民が食料や日用品を届けてくれるから、さほど不便はない。食事は、まあ、自炊だな」

「自炊ですか、貴方が?」

思わず目を丸くした。

「失礼な奴だな。これでも軍の生活で一人暮らしには慣れている」

いささか憮然とした様子で答えるラウは、アデスの問いに呆れているようだ。

「まあ、そうですが」

ラウが胸を張って言うほど、彼の生活能力を信じ切れないのはなぜだろう。なんでも器用にこなす上官だったはずだが、アデスの胸には一抹の不安がよぎる。

「貴方は、あまり食べることに頓着しないでしょう? 一体、どんな食事をしているのか、少々不安です。ちゃんとバランスよく食べてますか?」

「ちゃんと野菜や果物をとっている。それでも足りない分は、サプリで補うさ」

「まったく…よく、クロード殿が許しましたね」

「何を言う。奴の許しなど必要あるか」

「それは、そうですが……、よくジャンやカールが追いかけてこなかったものかと。ボディガードを置いているものだと思っていたのに、貴方一人だなんて心配で放っておけませんよ」

カールはともかく、ラウに恋をしていたらしいジャンがよく追いかけてこなかったなとアデスは感心する一方、不安になった。

「麓からの一本道の上、冬の間は除雪もままならない状態だった。誰か不審者が来ればすぐにわかる。監視装置もあるしな」

外観は小さな木造の山荘に見えるが、実はハイテク機器による警備がされているのだと、ラウは説明した。

「それに――知っているだろう? 分かるのだよ」

ラウの一言にアデスは小さく息を呑んだ。
そうだった、彼は――いや、フラガ家直系の能力は、空間把握能力と直感の冴えだ。自分の領域に踏み込む異物に対し、その優れた感覚で対処できるのだから。
心配は杞憂だと分かっていても、アデスは不安になる。
敵の存在を察知できても、動けなければ意味はない。

「知っていますが……それでも、貴方を一人にさせたくないんです。分かってください」

「困った奴だな」

アデスの気遣いが面映ゆくもあるようで、ラウは困ったように笑った。
ゆっくりとアデスに手を伸ばす。コートの襟元に触れそのまま滑らせるようにして首の後ろに手を回した。

「……心配ばかりする前に、やることがあるだろう?」

鼻先が触れるくらい近づけて囁いた。艶やかな唇がアデスの目の前にある。
ラウの誘い文句にアデスが逆らえるはずがない。
そのまま吸い寄せられるように唇が重なる。
最初は互いの熱を確認するために、次は柔らかさを愉しむように、そして更に角度を変えて啄むように、最後は深く愛し合うために。

甘い吐息も、口づけの合間に零れるくぐもった声も、唇の触れ合う音も、何も変わっていない。
いや、離れていた時間が長ければ長いほど、一度触れ合ってしまうと離れたくなくなってしまう。
ラウは口づけをしながら、両手をアデスのコートの襟の下に忍び込ませた。肩を滑らせコートをするりと脱がせる。絨毯の上にコートが落ちた。
アデスはラウの頬を撫で、髪を撫で、耳元にも首筋にもキスを降らせた。
次第にお互いの体温が上がっていく。吐息も荒々しくなった。

「……寝室は?」

アデスがキスの合間に尋ねた。

「……二階の南の角部屋だ」

答えを聞くや否や、アデスがラウを抱き上げた。口づけを交わしながら階段を上り、寝室へと歩く。小さな山荘なのに、思っていたよりも寝室までが遠く感じられ、二人は焦れったい気持ちを味わった。

「……こんなことなら一階に寝室を造っておくべきだった」

ラウがぼそっと呟く。
アデスも同意したように頷いたが、あわてて首を振った。

「セキュリティのこともありますから二階で正解です」

アデスのきまじめな答えに苦笑する。

「今はそんなこと忘れてしまえ」

「はい」

ベッドにたどり着くと同時に、服を脱ぐのももどかしく、二人でもつれ合ってベッドの上に倒れ込んだ。



あとは、二人だけのひとときの逢瀬を心ゆくまで愉しむだけだった。







2012/12/29