一方、恩師を大学まで送って、とりあえず今日のところは、お役御免になったロイドは、いそいそと自分の職場へ戻ってきた。
途中で新たな理論を思いついたらしく、白衣に着替える時間も惜しんで、教授曰く「まともな服」のまま、ワークデスクの前に座って、キーボードを叩いている。

「ロイドさん、もういいんですか? ハイマン教授に呼ばれていたんじゃ……」

「あはぁ、任務完了〜。相変わらず無駄に元気そうでしたよぉ」

「そうですか、よかったですね。恩師にお会いできて。
 ロイドさん、若さ故の過ちをちゃんとお詫びしてきました?」

「過ちって……。君ねぇ」

「だって、あれだけ教授にお世話になって、ご迷惑をおかけしたんですから、ご恩返ししなくちゃいけませんよ」

「はいはい〜。あ、セシル君、お茶ちょうだい。喉かわいちゃった〜、あ、あとプリンもねv」

子供のような上司の態度に、セシルは溜息を一つついて、仕方なくお茶を淹れに行った。



プリンを平らげ、一息ついたロイドは、セシルが置いていった決裁文書に目を通すことにした。
特派の責任者として、ナイトメアの開発以外にも面倒な事務手続に関わる決裁もこなさなくてはならない。
好きに研究をやらせてもらえる代わりに、組織の責任者としての役目もしっかり果たすようにと、上司であるシュナイゼルから言われていた。

サインが必要な書類が二つ。
着慣れない服のせいか、ペンを取ろうとして、袖を紅茶のカップにひっかけてしまった。
派手な音を立てて、カップがひっくり返る。飲みかけの紅い液体が零れた。

「あららぁ」

「もう! なにやってるんですか!?」

ロイドはとっさにパソコンを両手で持ち上げて、大事なデータだけは死守した。
そのかわりに犠牲になったのは、衣服だった。紅茶の染みが上着に広がる。

「火傷してません?」

「だぁいじょうぶ。パソコンは無事〜v」

慌てて駆け寄ってきたセシルは、データよりもロイドのことを心配してくれた。この辺が、研究者とはいえ、ロイドとは違うところだ。

「それは、上出来です! って、その前に熱くなかったんですか!?」

「もう冷めてたからぁ」

「よかった……。とりあえずこれで、拭いてください。今、片づけますから」

ハンカチを取り出し、ロイドに渡すと、自分は、掃除用具を取りに行った。
セシルは、濡れたワークテーブルと床をてきぱきと拭き、だいたい片づけが終わると、改めてロイドの姿を見た。

「上着も脱いでください。洗いますから」

ロイドは、紅茶色に染まった上着を素直に脱いでセシルに渡す。

「洗濯は無理ね……クリーニングに出さないと」

作業用の白衣と違って、上着は上等なシルクだった。
こういう時だけ、セシルは、上司が伯爵だったことを思い出す。めったに宮廷服姿を見ることがないので、いつも忘れてしまっていた。
尤も、今日の服装は、礼服ではない。貴族達の普段着のようなものだと思われた。

セシルは、ポケットに何も入っていないかどうか確かめるために上着を探った。
生活能力がない上司は、汚した白衣を洗濯する前にポケットの中身を出さないので、懐中時計を三度壊している。
その度に、セシルに怒られたので、今では、時計を完全防水のものに買い換えたくらいだ。

「あら?」

指先に固いものが触れた。また、懐中時計かと思ったが、形状が違った。

「ロイドさん、ポケットに何か入ってましたよ」

そう言って、中身を取り出した。赤い小瓶だ。

「あ、そうだ。忘れてた」

空港で会った調香師のことを思い出した。

「香水だってさ。よかったらあげるよー」

「私にですか!」

目を輝かせたセシルが、期待に満ちた眼差しをロイドに送る。

「うん。どんな匂いか知らないけど」

「知らない……んですか?」

途端に怪訝な顔になったセシルは、先ほどまでの喜色に満ちた気持ちがみるみる萎んでいくのを感じた。

「うん。人にもらったから」

「そう……ですか」

ロイドがそんな気の利いたことを自発的にするわけがないと知っていたのに、僅かに期待してしまった自分が口惜しい。いつもそれで振り回されているのに、とセシルは肩を落とした。
だが、とりあえず、珍しく上司がくれるというのだからもらっておこうと、赤いガラスの小瓶を光に透かす。
綺麗なカットガラスだ。試しに瓶の蓋を開けて、鼻を近づけた。

「?」

首を傾げた。

「ロイドさん……。これ、香水なんですよね?」

「うん、それくれた調香師の人がそう言ってたよ」

ロイドは、相変わらずパソコンに向かいながら、どこか上の空で答えた。
セシルは、もう一度嗅いでみたが、やはり匂いがしない。

「これ、香水じゃないみたいですよ」

「えー?」

「匂いがしませんもの」

そう言って、ロイドの目の前に瓶を差し出した。
ロイドも試したが、やはり何も感じない。

「あれぇ? 香水だって言ってたんだけどなぁ」

調香師と名乗った人物が、嘘をついていたのだろうか。
首を傾げたロイドは、試しにつけてみようかと思ったが、数日前のシュナイゼルとの会話を思い出してしまった。

「ひょっとして毒!?」

「ええっ!?」

「……な、わけないか」

「もう! 驚かさないでください!」

「あはぁ、ざぁんねんでしたぁ〜」

「でも、本当に何なんでしょうね。香りがしない香水なんて、香水って言いませんよね。
 念のため成分分析してみましょうか?」

赤いガラスが光を受けて絶妙な色合いを帯びる。

「うん。じゃあ、お願い〜」

「わかりました。少しお預かりしますね」

セシルが小瓶を受け取って、分析機にかけるため別室へ行く。


ロイドはセシルの背中をじっと見つめて、表情を僅かに曇らせた。





続く



続きは、既刊本「Lastonote」に掲載しています。




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