『籠の鳥 1』 SAMPLE トルキエ歴七十五年、大トルキエ体制に不満を持つムズラク将国が反旗を翻した。『内乱』鎮圧のために派遣されたのは、トルキエ将国の最年少将軍、犬鷲のマフムート。 だが、彼の率いる軍勢が、味方の裏切りに遭い敗走したとの報が金色の町に届く。途中、部下を逃がすために囮となったマフムート将軍の生死は不明のまま半日が経過していた――。 ムズラク将国軍の将王の天幕は、戦勝の喧噪とは無縁だった。 勝ち戦で兵たちが盛り上がる一方、羊毛の幕一枚で仕切られた将王の天幕には未だ張り詰めた空気があった。 陣営を闊歩し気勢を上げる兵たちの荒々しい息づかいや勝利の歓声が聞こえてこないわけではなかったが、外の熱気とは裏腹に天幕の内側では、冷厳な視線が交錯していた。なぜなら、そこには勝者と敗者が顔を合わせていたからだ。 両腕を後ろで縛られ、将王バラバンの前に引き立てられたマフムートは、気が遠くなるような脇腹の痛みに耐えながら毅然と顔を上げた。上から親兵二人がかりで押さえつけるようにして膝をつかされた。 脇腹を射貫いた矢は、柄の部分が途中で折れていた。反しのついた鏃は深く肉を穿ち、マフムートの気力と体力をじわじわと奪っていった。押しつけられた無理な姿勢に傷口からの出血がさらに酷くなり絨毯を赤く染めていく。 勝者であるバラバンが、長椅子に座ったまま傲然と敗者を見下ろす。その脇には『赤髭(アル・サカル)』という名の彼の愛虎が付き従っている。血の臭いに反応し、今にもマフムートに襲いかかろうとしていた。その首を撫でるようにしてバラバンが宥めている。 マフムートの目の端に、地面に無造作に投げ置かれた革袋が映った。口紐がほどけ、中から金貨が数枚こぼれ落ちている。あの重量感からすると、おそらく金貨がぎっしりと詰まっているだろう。だが、その金貨は返り血で汚れていた。 「気の毒に……。彼の首はまだ胴とつながっていますか?」 マフムートは、うっすらと口元に笑みを這わせ痛烈な皮肉を口にした。 「これから殺される人間が、自分を裏切った男に同情か。貴公はお人好しが過ぎるのではないか」 バラバンが剣の鞘でマフムートの顎をすくい上げるようにして仰向かせ嘲笑した。マフムートはまっすぐにバラバンの目を見て言った。 「殺せ」 マフムートの瞳に死への恐怖はなかった。敗れたことへの悔恨も、裏切った者への憎しみもなかった。 「悔しくはないのか?」 「彼のトルキエへの不満を計りきれなかった私の未熟です。それに……一度裏切った者を重用するほど、貴方は愚かではない。彼は自らの咎を自分の命で支払ったのでしょうね」 一度裏切った者は二度裏切る。それはバラバンの美意識に反するだろう。そのような者を重用することはもちろん、生かしておく理由はない。裏切りの恩賞を充分すぎる程に受け取った男は、今頃、親兵の手で地に帰されたことだろう。 「小憎らしいことを。膝をつき、頭を垂れて許しを請わぬのか?」 「貴方に命乞い? ……無駄でしょう?」 マフムートの口元に自嘲とも侮蔑ともつかぬ笑みが浮かぶ。バラバンは不愉快そうに鼻を鳴らした。 「フン、つまらん。己の命を惜しむなら、その首即刻落としてやろうと思うたのに」 残念そうにため息をつく勝者の目は、どこか楽しげだった。 「惜しいな」 バラバンは、他の者には聞こえないくらい小さな声で呟くと、剣を手にすっくと立ち上がった。 「貴公に再び問おう」 戦に勝ち、完全な優位に立った者が敗者の意志を問うことなど、本来ならばあり得ない。 「我が親兵とならぬか?」 その問いは、二人が初対面の時に交わされた言葉だ。 「お断りします」 マフムートは以前と同じように即答した。 「調略にはいささか時期が遅いかと思いますよ」 「で、あろうな」 その答えを予想していたとでもいうように、意に染まぬ答えに憤慨するでもなく、バラバンはわずかに口角を上げた。 「私もトルキエという他国のために働く貴公に用はない」 マフムートの喉元に突きつけられた長剣が鞘から抜かれた。鞘の代わりに白銀の刃が脈打つ頸動脈の上にかざされた。僅かでも身動きすれば、皮膚が裂け容易く血が噴き上がるだろう。 「ただ殺すだけならいつでもできる。知略も勇猛さも兼ね備えたトルキエの将軍に別の道を与えてみたくなった。私が与えた場所で私のためだけに生きる貴公を見てみたい」 「なにを…」 酷薄な笑みを浮かべたバラバンは剣をおさめ、側仕えの親兵に何事か耳打ちした。親兵が頷き、恭しく一礼して天幕を出て行く。 マフムートは訳がわからず、呆然と成り行きを見守っている。 「大空を翔る翼をもがれ、敵を射貫く鋭い嘴と爪を失った犬鷲が、鳥籠の中で生きられるかどうか知りたい」 バラバンは、ゆっくりと絨毯の上に膝をついてマフムートの頤に手をかけた。顎の骨が軋むほど掴み、顔を上げさせる。二人の視線が同じ高さで合う。 「賭をしないか?」 「……賭?」 マフムートの顔が訝しげに歪んだ。 「殺すには惜しいとは思った。だが、このまま貴公を放逐するわけにもゆかぬ。いつ私に向かって牙を剥くのかわからぬからな」 当然、命ある限りバラバンの命を狙うだろう。それがマフムートに与えられた役割だ。それが嫌ならマフムートの息の根を、今ここで止めるしかない。 「私の鳥籠の中には美しい羽と声をもつ鳥たちがたくさんいる。どれも自慢の可愛い鳥たちだ。だが、その鳥たちは鋭い嘴と爪を隠し持っている。その中へ貴公を入れたらどうなるだろうか」 「なにを言って……」 「鳥籠の生活に耐えられなくなって私に許しを請えば私の勝ちだ。鳥籠の中で再び犬鷲の誇りを取り戻せば貴公の勝ち」 挑発するようにバラバンは囁く。だが、マフムートはその挑発に簡単に乗ったりはしない。 「そんな曖昧な勝敗の条件では賭けになりませんよ。勝敗を決めるのは貴方の主観でしかないからです。そんなものに私が乗ると思いますか?」 「流石、知略で知られたマフムート将軍だ。だが、貴公はこの賭けに必ず乗ることになる」 自信満々のバラバンに嫌な予感がした。この予感は外れることはない類のものだ。 「確か、貴公は先の戦で全滅したトゥグリル村の出身だったな」 「……それが何か?」 「復興して新たな村ができたと聞く。そのような惨劇を二度と繰り返さぬために、貴公は将軍になったのだったな」 マフムートが息を呑んだ。みるみるうちに顔が青ざめていく。 「二度は――ないとよいな」 バラバンの口角が上がる。ぞっとした。悪魔の微笑だ。 「なっ……! イェニ・トゥグリル村は関係ないでしょうっ!?」 マフムートの叫びを一切無視し、バラバンは傲然と言い放った。 「自害は許さぬ。故郷が燃える様を見たくはないだろう?」 マフムートは唇を噛みしめた。血が滲むほどに。勝者の傲慢さに敗者は常に従うしかないのか。 返事は一つしかなかった。 ◆◆◆◆ ムズラク将国軍が凱旋したその日、将王バラバンの後宮には七番目の側室候補が密かに入宮した。身元は定かでないが、将王が戦地で見初めて直々に妾妃として召し上げたという。 通常、妾妃になれるのは貴族や有力な商人の娘か、もしくは他国から献上された女たちだ。実家の財力や地位は後宮内ではあまり役に立たない反面、将王の寵愛ひとつで立場が逆転する。将王の寵愛を得られなければ後宮内で確固たる地位は築けなかった。 だからこそ、女たちは必死になる。将王の御子を懐妊し、王位継承者の母となればそれだけで後宮内での発言力は増す。まして、今の将王バラバンに正妃はいない。いずれ四将国の姫君を正妃に迎えるとしても、他の妾妃たちが後宮内でトップに君臨する機会はいくらでもあった。だから女たちはバラバンの目に留まろうと美しさを競い、寵を競い合うのだ。 紅の宮殿は、大きくは二つの宮から成る。将王が政務をおこなう正宮と、将王の妻や家族が暮らす後宮だ。将王のために集められた美姫たちの暮らす空間であり、女たちの世界である。 その夜、美しくも苛烈な鳥たちが暮らす後宮に一羽の見慣れぬ鳥が舞い込んだことを、まだ誰も知らなかった。 ※続きは『籠の鳥1』にて。 |